カタツムリより速いけど

 朝から残酷物語ですが、母君の御御足がどのような状況なのかを一回自分の目で見て知りたく、起床後の母君に一切手をお貸しせずに(味噌汁作りに集中している体で)観察をば。
 仰臥の姿勢から掛け布団をはいでL字型に起き上がるところまでは比較的問題なくお出来になる(悪いのは腰から下ですね)、そこから体育座りの格好になって身体を90度回転させ敷布団の縁に座る格好になるのはちょっと苦労するけれどもこれもお出来にはなる、そこから床に手をつき両の足で立ち上がるのは何度も何度もお尻を上げようとなさって失敗しやっと立てたは良いけれどもバランスが取れずに足がふらつき部屋の壁にもたれかかる他なく(ここから介助が必要になります)、そのまま壁伝いにトイレに行こうとなさるも足が殆ど前に出ないという有様、途中で間に合わなくなるところまで凝視観察してたので「朝から残酷物語」です。
 トイレの中までお連れして、パッドの処理は私、便座に座りさえなされば汚れた部分を拭くことはお出来になりますのでそれは母君のお役目(トイレの中に、ウェットタオル他清拭用の道具や代えのパッドを置いています)。その後、お風呂場までお連れしてシャワーで腰から下を洗って差し上げました(この工程は「介助」ではなくて「介護」かな)。

 あの歩き方ではとても用足しなんて無理ですねぇ、と現実を視認受容した私。ただ、だからどうしたら良いのかというのが判らない。問題なのは、3月の時は2日程度で歩き方を思い出されたという点でして。ずっとこの状態なら歩行器だとか車椅子だとかが必要になる(実際、全脳照射の治療後に足が動かなくなった時には車椅子を用いましたし)。ただ、じゃあ今すぐ車椅子を準備! というのには何だか抵抗感がある。でもでも、取り敢えず様子見だとしてそれがいつまで続くのか気づけば私の清拭洗浄スキルだけアップしてるみたいになっちゃうんじゃないのかそれは母君の尊厳の問題としてどうよ、と堂々堂々。

 こういうのはプロの知恵、幸い本日は週に一度のリハビリステーション訪問、施設の中なら介助介護がなされて母君も(っつーか仕事してる私も)安心……というところで重大な問題に気づきます。ステーションからのお迎えは9時過ぎ、その時刻は私は学校で仕事中(1限の授業中)、でもってエントランスの自動ドアでインターフォンを鳴らすステーションの職員の方を(パネルまで移動して操作して)マンションに迎え入れることが今日の母君にはどうしてもお出来になりません。
 本当は良くないのですが、9時にHさん(自宅徒歩2分)に自宅に来て戴くことにしました。何かの時のためにHさんには我が家の鍵をお預けしていますので、9時に自宅に来ていただき、ステーションのお迎えの方への応答をお願いしたところ、快く応じて下さいまして。ステーションには、母君の足が全く動かなくなったことを事前にご連絡しました。もしかしたら受け容れ拒否もあり得るかなぁ、と思っていたのですが、車椅子対応で問題ないとのお言葉を頂戴し(ここでは車椅子に抵抗がとか言ってる場合じゃありません)。

 1~5限が高3の授業。3限後の中休み(20分休み)にHさんに電話したら、母君は大変ご機嫌良くHさんへの当たりも柔らかく(外向けのお顔もお出来になるのねぇ)、ステーションへの送り出しも恙なくだったということ。プロの方にお預けしているというのは安心に繋がるもので、授業5コマの間は母君が気になって仕事が手につかないなどということはありませんでした(とまぁ、常日頃生徒には「やる気の有無と実行の有無とは独立事象」と言っている人間ですので、気が気じゃない状態でも授業自体は出来たと思います)。
 5限終了後は年休を取り、タクシーで学校から市内の大きな酒屋、Hさんのお好きそうな夏酒を購入してHさんち、御礼片手にご挨拶をしてから母君のリハビリステーションへ……は、タクシーを返して何とHさんが車で連れて行って下さいました。ステーションの母君はやっぱり終始車椅子移動で(但し、ベッドから車椅子への移動は自力で行えたということでした)、ドア横につけた車椅子からHさんのお車に移るのも(5分とは言わない時間が掛かりましたが)何とかお出来になりました(ステーションから自宅までもHさんが送って下さいました)。
 自宅マンション前駐車場で降ろして戴いてHさんとはお別れ、ここからエントランスに入るまでにまた15分以上かかります。待てど暮らせど足が(特に右足が)動かない。日差しが強い中母君は「頭が熱い」と仰るけれども動けないからどうしようもない(部屋に帽子を取りに行こうにも母君を置いていけない)。この15分がいちばん大変だったかな。「来週は帽子を被って行きましょう!」「今熱いって言ってんのに!」って。

 夕食は作りました。朝もそうでしたし、ステーションでの昼食もそうだと伺いましたが、食欲等異常なく、足が動かないこと以外に特段の不調はないご様子(いや、足が動かないっつーのは凄いことなんですけども)。思うようにいかないお身体、慣れない車椅子等々、随分お疲れの様子の母君は自宅での入浴はスルー(ステーションでの入浴も母君からお断りになったそうです)。夕食後は、お手洗い、洗面所にエスコート(?)してからお布団に入っていただきました。

 「もりき」で独酌、えぇ飲みますとも。マスターのお母様(90代)と私の母君との身体の状態がどんどん似てきている、とはマスターの言。「うちの母親がそっちのお母様を凄い勢いで追いかけてるんだね、いや、足は動かないんだけど」とか軽口を叩くくらいは許してね、帰ってからは和室横の炬燵で寝ますし、夜中は2回(私が水飲みに起き出すついでに)お手洗いにお連れしましたし。フローリングの床で寝るのは硬いし冷たいし、やですねぇ。

興奮したカブトムシよりは遅い

 3時前に起床して書斎で添削……の前に、ふとした違和感を覚えて母君のお部屋へ。寝ておられるのですが、お布団に入られた時と服装が替わってお出でです。ゴミ袋を見て、母君が夜中に粗相をなさったことを知りました。以前部屋で倒れられて救急搬送された時以来パッドはつけて頂いていますし、トイレの中には身体が拭けるようなウェットタオルも置いてますし、まぁお手洗いが間に合わないこともあるよなぁ、とここでは違和感を飲み込みました。そんなことより特講の添削があるからです。一応、洗濯カゴの中は漁って、ズボンのどこにも汚れが無かったのに「おおっ、パッド偉大なり」と驚いたり、しまいにゃ臭いまで嗅ごうかというくらい近づけてズボンを凝視している自分に「わしゃストーカーか」とツッコんだりしてから書斎に入りました。

 特講の添削後に、入浴・朝食準備、7時過ぎに着替えて出勤、という流れはいつも通りで、夜中の出来事については知らない風で家を出ました。その後、母君は洗濯機に籠の中の洗濯物一式を放り込んでスイッチを入れられた様子。
 3限が空いていたのでそこを1時間の昼休みに充て、自宅に戻ってさぁ昼食の準備をしようかとした時には、母君はベランダで洗濯物を干しておられました。やっぱり気になって洗ったんかねぇ、とベランダから室内に戻って来られた母君の方にひょいと目をやった時に、その瞬間が訪れました。
 っつっても別段何かショッキングなことがあった訳ではなく、和室内に入られた母君がゆっくりゆっくりその場にしゃがみ込まれた後、私が冷蔵庫の中の総菜をチンして温めた味噌汁をお椀に注いで母君の炊かれた白ご飯をお茶碗によそって急須の中の日本茶を湯飲みに移してそれら全部を載せたお盆をダイニングのテーブルに置いてまでする間の10分弱、ぴくりとも動こうとなさらないのです。ちょっと変かなぁと思って「どしましたの?」と伺ったら「判らない」という弱々しいお返事。「判らないとはどゆことですかね」と熱射病的なものへの疑いの兆しも感じつつ近づいて行ってから気づいた、あ、これ、立てないんだわ。3月頭と同じだわ。

 3月2日に「N」病院を退院するときに突然足が動かなくなった(足の動かし方を身体がど忘れしたような感じ)のと全く同じことが起こっているようです。取りあえず肩を貸して強引に立っていただいて、殆ど引き摺るようにリビングのソファにお連れして座って頂きました。右足、左足を交互に出すという動作が殆どお出来になりません。
 3月頭の時は2、3日で歩き方を思い出されたようですが、二度目の今回はどうなのでしょうか……というかこの状態でトイレに行きたくなったらアウトやないかね、ってか昨日の粗相はその兆しだったのかぁ……とか考えながら洗い物、食後の母君を取りあえずお手洗いにお連れしようと肩を貸したら出来るだけお一人で移動なさりたいようで、身体を離してみたところ壁伝いならカタツムリより速いスピードで移動できるご様子。

 這ってでも良いから2時間後くらいには一度お手洗いに、とお願いして仕事に戻り、4~6限の授業は気が気ではありませんでした(大体いつも授業ではキョドっているので、外面的には違いが無かったと思います)。仕事上がりに全力で自転車を漕いで帰宅したところ、この5時間の間に失敗は無かったご様子で、「お手洗いには行かれました?」と伺うと「行った」とのお返事。ただし、これは私が連れて行った時のことを指しているのかその後に自力で一度(以上)行かれたという意味なのかは判りません。
 私の入浴後の母君のお風呂はですから完全に「介護」です。辛うじて浴槽を跨げたっつーのが奇跡みたいで(私が後ろから支えながらではありますが、浴室内で母君が右足を上げられた時には「あら、お上手」と思わず口走ってしまい母君を笑わせました)。その後、夕食を作って薬と一緒にお出ししましたが、食欲その他身体の異常はないご様子。痛みが無いというのが有難い話で、現在はただただ立ち座りの時の力の入れ方・歩く時の足の動かし方が身体の記憶から蒸発しているという状態です。

 トイレ→洗面所(つかまり立ちしながら自力でハミガキはできました。ちぱちぱ)→お布団、と肩をお貸ししてお休みの準備を整え、和室・リビングの電気を消して「お休みなさい」のご挨拶の後は……
 ……まぁ、飲みますよ。そら飲みます。自宅徒歩2分の焼鳥屋「T」を選んだあたりいっそ親孝行って言ってもいいくらいですよ。ビール2本、焼酎(キープ)3杯、帰宅。
 一応、寝室の自分のベッドではなく和室と一続きになったリビングのこたつ(まだこたつ布団はかけたままです)にて睡眠。トイレに行きたくなったら起こすよう、お休みのご挨拶のときにお願いしています。歩き方を思い出されるまでは、リビング睡眠が続くかな。ってか、歩き方を思い出される日が来るのか知ら。

咳をする 低く深く あらゆる苦を

 土曜日の56回生Iくんの結婚式、引き出物はカタログから品物を選ぶ形式だったのですが、私、こういうのをほったらかして有耶無耶にさせるタイプの人間でして。ただ、今回は少し前から機会があれば買いに行きたいと思っていたものがあり、帰宅後にカタログを見たらそれがドンズバで掲載されていたのでほぼ即日の注文でした(葉書だけではなくネットから注文できるようになっているのも便利ですね)。高級な塗り箸に、箸置きがセットになっているもの(欲しかったのは箸置きなんですね)。一週間ほどで届くそうです。

 学校での授業は3限に文系二次対策、8限に高3理系漢文特講。前者は25枚、後者は40枚の添削答案が来ますので、3限のものは6限終了時までに添削を終わらせて帰りのSHRで返却してもらい(特講の7・8限はSHRの後です)、8限特講のものは未明に添削をして朝のSHRで返却してもらいます。一瞬でも貯めたらペース崩壊は目に見えてますので、この自転車操業だけは気を抜く訳にいきません。56回生以来12年間はやれました。この先、恩師先生が60の御年でこれをこなしておられたような持続力が私にあるかは想像も出来ませんが、「日常性のEASY!」を座右に頑張っていかなければなりません……と、やや気負った書き方になっているのは、明日の日記で書くことになる出来事が私の「日常」をやや揺るがせるものだったからですね(50日遅れの日記のメタ的な記述!)。

RevivalのMovieを見ているようだね

 母君の朝食を作る時刻に起床、お出しした後で入浴、昼間では書斎でデスクワークをし、母君の昼食をお出ししてから学校へ。
 第1回定期テストまで約一週間です。試験範囲の授業が全て終了するまでは作問を開始しないので、切った貼ったをしたりタイピングしたりする実働は先になりますが、頭の中ではどのような問題にするのかを考え始めています(具体的には、試験範囲になっている複数の文章間の関係を問える箇所はないか、ということを)。昨年度は67回生高3だけを担当しており、高3は7月の第2回で定期考査を終えるので、定期テストの作問は約10ヵ月ぶりのことになります。今年は高3文系、高3理系、高1内進古文、高1外進古文、と4種類がそれぞれ別々の問題になるので作問が割と大変ですが、この程度で音を上げていたら「クイズ好き」の名が廃りますので……。

 夜は、ライブバー「A」のマスターに誘われて、店で行われたライブイベントを鑑賞に。マスターがボーカルを務めるバンド(チェッカーズのコピー)演奏を鑑賞しました。サックスまで入った本格的な演奏に、もう本人じゃんっていうレベルで似ているボーカルが乗り、集まったチェッカーズファン(恰好が年季入ってる! って方が散見)のボルテージが凄まじいです。今日は違いますが、実際にチェッカーズの大土井さんも定期的にステージに立っているというのだから筋金入り。でもって、「TOKYO CONNECTION」「Gipsy Dance」という初めて聞いた2曲がとても恰好よく、後で思わずベスト盤を購入してしまいました。
 今日はイベントだからゆっくり座ってじっくり飲むということは出来なかったのですが、思えば柵を加味したとしてもこういうアマチュアイベントに参加するのに関しては徹底的に及び腰だった私を変えたのは確実に絵恋ちゃんさんですね。

彼とならきっと大丈夫

 4時に起床して書斎で書き物、入浴、母君の朝食作成。学校では2限だけが授業でその後に年休。母君のお食事に関しては、昼食は作りたてをお出しできましたが、夕食はお刺身等冷たいもの(温めなくてよいもの)だけで構成したプレートを冷蔵庫に入れ、時分時になったら取り出して召し上がるようお願いしました。本日は56回生Iくんの結婚式・披露宴です。
 行きつけの美容院「G」で髪をセットしてもらうよう予約は入れているのですが、美容院では顔ぞりが出来ないので、その前に自宅近くの理容室で顔ぞりをお願いしました。15分程度で終わって値段が1000円、これは高いのか安いのかよく判りません。以前別の理容室(行きつけではなく飛び込み)では、一ヶ月に一度くらいは顔ぞりをした方が良いと言われたのですが、何かイベントでもないとなかなかそんな気にはなれません。
 名入りの礼服に着替えた後、母君に夜が遅くなると言い残して昼過ぎに自宅を出発、「G」でシャンプーと整髪とを。「G」のワンオペ店長Kさんは私と同じ年で、小学生・保育園のお子様をお持ち。話は自然とKさんの結婚・子育ての話になります。7年ほど前(我々が30歳くらいで、Kさんにはもうすぐご長男が生まれるかという頃)に同じく常連の同窓同僚数学を交えて飲みに行った時、店の前で見送りをしてくれた大学生くらいの女性バイトさんにKさんが「お店は何時まで(開いてるんですか)?」と聞いたらバイトさんが思わず「23時で(私はあがりま)す!」と答えたくらい、どちゃくそイケてるKさんなんですけれども、ここ数年、風貌にパパの色合いが濃くなってきました。

 結婚式会場となるホテル「N」は西鉄薬院駅ですからK駅から特急で30分。傘は荷厄介で(大袈裟かな)、それでもささなければ少し濡れるという嫌な天気(披露宴が済む頃にはすっかりあがっていました)。結婚式の待合室では56回生Kくん(内進)・Kくん(外進)・Mくんの3人とご挨拶。内進Kくんはもう何年も前に教育実習に来た時(彼が3週間寮に泊まり込んだ時に)ほぼ一日おきに飲みに行ったのを始め何度も合っていますが、外進Kくんは卒業以来2度目、Mくんに至っては卒業以来なのかな。ウーロン茶とオレンジジュースとのサービスは固辞、喉はもう酒を飲むモードになっています。
 結婚式は賛美歌312番、「いつくしみ深き 友なるイエスは」というやつですね。あれをどのくらいの音量で歌うのか、毎度探り探りになってしまいます。新郎新婦は既に昨年入籍を済ませ、6月からのIくんの社費留学(アメリカの大学で経営学を学びます。社内の選考を勝ち抜きました)に合わせて本日の目出度いお式。二人の夫婦生活が既に一定期間以上経っているということもあり、全体的に落ち着いた雰囲気の式でした。私達F校組4人は、Iくんの大阪大学時代の友人4人と一緒の席でしたが、スピーチをした男性氏もIくんを過剰に弄ったりすることのない誠実な言葉を。類は友を呼ぶというのか、きっと新婦さんも誠実真面目な方なんじゃないかなぁ、と。
 F校組4人は、近況交換をしたり、銀行員の内進Kくんが披露した銀行業界のおっさんの結婚式における態度の酷さの色々に大笑いしたり(そういえば、私が今でも時々人に語る新人研修の「起き抜けハーフマラソン」はこの内進Kくんから聞いた実体験でした)。いつものことながら随分ビールを飲みましたが、披露宴オープニングのムービーで「お酒もたくさん飲んで下さい!」と書いてあったのでまぁいいかな。

 さて、Iくんの披露宴が終盤にさしかかった頃、ちょっとトイレに出たついでに、現在同じく56回生のKくん結婚披露宴の最中であるところの化学先生@ホテル「O」に電話……したら、まさしく今が「酣」で会はまだまだ続くということ。
 新郎新婦とそのご家族が見送りの出口に移動している間に、他の3人に話を振ってみる。「あのね、今こっから直ぐ近くのホテル『O』で、56回生Kくんが結婚披露宴の最中なんだよね。英語先生と化学先生とがいて、多分56回生も何人か。行く?」
 長崎へ帰らないといけないMくん以外の3人で、タクシーに飛び乗ってホテル「O」へ。途中コンビニで祝儀袋を買って、私・内進Kくん・外進Kくんの三人の連名で10000円ずつ入れました。さて、格好こそ礼服ですが、結構赤い明らかな散会顔で、手にはライバルホテル「N」の引き出物袋を下げて颯爽と会場へ向かう3人。流石に黙って入るのはNGでしょうから、入口で「O」の従業員さんに声をかけ。別のホテルでの披露宴の帰りなのですが、今そこの広間で高砂に居るKくんも知人で是非お祝いをしたく、このご祝儀袋を届けるのだけ、許して貰えませんか?
 快くOKを貰ったので、さも「呼ばれてますけど?」みたいな顔をしながら会場に入り(デザートが振る舞われており、もうすぐエンディングという場面でした)、真っ直ぐF校席に向かう。化学先生・英語先生・外進Kくん・内進Bくん・内進Oくん・内進Nくん、等々にご挨拶(化学先生は「本当に来たの?」と呆れ顔で、英語先生は「その意気や良し!」のご満悦顔)。我々3人は高砂から人が居なくなる隙を見計りつつ、新郎の前から人が捌けた一瞬をついて走って行きました。「Kくん、久しぶり!」と声をかけたら、Kくん「?……! 何で?」とまぁ真っ当な反応。「近くでIちゃんの式があったから、是非ご祝儀だけでもと思って~」と、内進Kくんが新郎のお衣装のポッケにご祝儀袋を突っ込みます。田中正造みたいです。

 何だかんだでほとんど最後まで会場に居て、二次会に行くメンバーと別れてホテル「O」を出ます(Iくんの披露宴は強制的な二次会はありませんでした)。我々3人と、何故かKくん披露宴の二次会から離脱してきた内進Bくんとの4人で二次会に行くことにして、博多で飲むならと「太郎源」に電話。
 「「「何すかこれ超旨い!」」」とマグロカマ焼きへの3人の反応を肴にして日本酒を飲むオッサンの夜は長く。Bくん、カマ焼きに感動して「母ちゃんに持って帰ります!」と持ち帰りをお願いする親孝行っぷりでした。

 それにしても、披露宴の梯子なんて、もう二度としない経験でしょうねぇ。新幹線でK市に戻り、K市の実家に泊まるという外進Kくんち経由でタクシー帰還。日付が変わった時刻で完全におねむだったので(20時間以上起きてて7時間くらい飲んでますからね)、脱いだ服を片づけることもせずにベッドに飛び込みました。

そよ風吹く午後… とても やわらかな

 昨日は帰宅が0時を回っており、流石に起床が6時を過ぎました。授業がないので2時間の年休を取っており、母君に朝食をお出ししてから入浴といういつもと逆の順番。学校では授業準備その他のデスクワーク。今日は、ちょっと前の日記でも触れた兵庫県某一貫校による学校見学の応対、67回生浪人Kくん・Kくん・Iくんへの添削プリント(東大現代文・漢文)の送付、56回生Iくん結婚式へのご祝儀準備(銀行でピン札をおろして、以前「かまわぬ」で購入した手ぬぐいご祝儀袋へ)、6月から国語科で教育実習に来る56回生Hくんとの事前打ち合わせ等々、何だか授業に関すること以外の仕事が目白押しです。
 夜は「もりき」で独酌。

どこにも止まらないで風をきり走る

 未明の書斎で板書準備(高3文系二次漢文、高1外進A組)、入浴、朝食作成と昼食の買い出し(本日は3・4限の両方が授業で自宅往復が不可能です)、出勤は7時半。2~4限と6限が授業で、5限が会議でした。

 卒業生2件。
 67回生Kくん(外進A組から理系に進んで我らB組、要するに私が3年間担任でした)から、東大現代文・漢文の添削依頼。浪人中の添削は、予備校生活に慣れて余力(例えば卒業した高校の教員に添削を依頼するなど)に回せる時間が掴めた辺りに連絡を、と言っていたのです。郵送の往復、早速最初の問題をご自宅に郵送しました。今後、4、5人から依頼が来るでしょう。
 明後日土曜日には、56回生Iくんに招待されて彼の結婚式・披露宴に出席します。会場はホテル「N」ですので、薬院から徒歩で行けます。で、56回生の担任団だった化学先生に「土曜日にIちゃんの結婚式があるんですよ~」とお話ししたら、「えっ、俺はその時間、56回生のKの結婚式やん」と、ほぼ同時刻に近隣のホテル「O」でKくんも結婚式・披露宴を挙げるということを教えていただく。2人とも外進A組で、Iくんは文系からJR九州、Kくんは理系でお医者様。よくよく聞けば、Iくんの結婚披露宴がKくんのよりも1時間ほど早く始まるそう。化学先生は「二次会で合流しようってなるかもね~」と仰って居ましたが、私の頭の中には「ワンチャン、披露宴の梯子ってあんじゃね?」という思いが兆し……っつっても、Iくんとは卒業後もちょいちょい飲みに行ってるんですが、Kくんとは卒業後に「もりき」で一回飲んだだけなんですよねぇ(副担任だったし彼は理系医学部組だったんで在学中もそんなに付き合いはなかったし)。

 6限の授業終了後、16時から年休を取って帰宅。母君の夕食を作ってから、今夜は帰りが深夜になることをお伝えしてから出発。飲み友達にしてK市の母でもあるところのHさんと、井上陽水のコンサートに出掛けます。西鉄電車とタクシーとを乗り継ぎ。タクシーの運転手さんは、井上陽水やその娘さん(福岡でラジオ番組をお持ち)やのことに随分お詳しい方でした。大麻の逮捕歴の話にはHさん目を白黒されてましたが。

 井上陽水「光陰矢の如し 少年老い易く学成り難し」@福岡サンパレス
 ①あかずの踏切り ②アジアの純真 ③Make-up Shadow ④5月の別れ ⑤青空、ひとりきり ⑥新しいラプソディー ⑦移動電話 ⑧海へ来なさい ⑨心もよう ⑩帰れない二人 ⑪女神 ⑫カンドレ・マンドレ~闇夜の国から~ダンスはうまく踊れない~飾りじゃないのよ 涙は~とまどうペリカン~ワインレッドの心~ジェラシー ⑬少年時代 ⑭リバーサイド ホテル ⑮最後のニュース ⑯夜のバス ⑰氷の世界

 サンパレスから天神で戻るタクシーの運転手さんから「『能古島の片思い』は演りました?」と訊ねられるようなご当地で、50周年記念ツアーのセットリストはほぼベスト盤です(新曲「cure」すら披露されていません)。意外な選曲は①・⑦・⑯くらいかな(⑯はメチャクチャ格好よかった!)。MCも半分以上が福岡時代(要するに歯科医目指して浪人しまくってた頃)の話でした。相変わらず人を食った言い回しで、⑨の直前のMCでは私の斜め前に座ったおじさんが「何を言いたいんだ!」と溢したのが聞こえたくらいです(そのおじさん、直後に「心もよう」が始まった途端ため息をつきました)。陽水のライブは5度目だか6度目だかですが、メドレーを聴くのは初めて。生まれた子どもに捧げたというエピソードを初めて知った「海へ来なさい」が沁みましたね。
 「帰れない二人」は思わず一緒に口ずさんでいたHさん、帰りの電車でもK市に戻ってから入った肉料理「I」でも、良かった良かったと感激絶賛。70にして声の衰えは隠せもしないけれども(とても魅力的な声であることは変わりないとしても)、それでもあれだけの曲数・時間を(途中休憩はありましたが)走り抜けた気力体力が凄い。

 今年は2月の中島みゆき、3月の松任谷由実、そして5月の井上陽水と、すんごいものを立て続けに観てます。思い出して浸りつつ、幸せな入眠。

こうなりゃ大げさに 肩を並べ

 67回生我らB組Nくんから九大医学部の得点開示が届きました。高校時代から趣味はラテン語など多彩、F校からもしトップ合格が出るなら彼かなぁ、と思っていたんですが惜しくも2位。1位の誰かさんとは総点で0.3点差でしたけど、これって若しかしてセンター1点差とかそんなレベルの差なのかな。だとしたら、熾烈ですねぇ。

 4時起床で板書準備、入浴、母君に朝食提供。今日は母君がリハビリステーションの日なので、昼食の往復はなし。授業が1~5限連続で詰まっているので、どのみち帰れはしないのですが。授業5コマはセンター漢文で、20分で解答させて、25分で解説という流れ(生徒解答中は、解説用の板書準備をしたり、前のクラスで回収した答案を採点したりしています)。本日の演習教材は共通一次時代の古い問題で、使った本文は王充『論衡』。『列士伝』に魏公子が鳥に自責の念を起こさせたとあるのは公子称揚の過ぎた虚構だと論じ、結論は「蓋言語之次、空生虚妄之美、功名之下、常有非実之加」、つまり「人って盛るよね」です。61回生以来7年振り4回目の教材なんですが、7年前の授業で「盛る」って言葉を使った記憶がありません(その用法自体が無かったのか、あったけれども私がまだ知らなかったのか)。
 空いた時間は怒濤の授業準備で、放課後17時からは高1生徒をLL準備室に呼んで「木曾最期」の朗読録音。8時半~17時半までノンストップで仕事をするつもりでしたが、途中ふっと30分程空きができたので、自転車で自宅近くの書店と総菜屋まで往復、書店では土曜に結婚式・披露宴に呼ばれた56回生Iくんへのプレゼント、総菜屋では今夜・明朝の母君のお食事を数品。
 高1では黄金週間明けから「3分間スピーチ」が始まっています。担任ではなくなってからは滅多に聴ける機会はありませんが、今日は用事があって教室まで上がった序でにA組某くんのスピーチを。大体、元々の知り合いではない集団がスピーチをやったら皆自己紹介を書いてくるんですが、そして実際今日の某くんも自己紹介ではあったのですが、その形式が次々に「俺(についての)クイズ」をノーヒントで繰り出すという斬新なスタイルで感心しました。聴衆も「知らんがな」ではなくちゃんとつき合ってたのが善き哉。

 台所で今年初めての小バエを見ました。ここ数日メチャクチャ暑くなりましたね。今日はジャケット無しの出勤でした。18時退勤の道草、ドラッグストアで小バエ取りを購入。私→母君、の順で入浴後に母君の夕食を作成。「もりき」で読書独酌は、色々な銘柄の夏酒が出てきて爽快です。

学校一の遊び人 私とあなたと 彼女と

 3時起床、そのまま書斎に入って昨日の東大理系特講を添削。特講初回の今回は12年『春秋左氏伝』で、F校校是の「和而不同」の定義を問う内容なので導入にぴったりです。平均で6割の得点というのも例年並みで安心(私、もう高3の漢文をやるのが7回目です)。
 今日は出張で会議があります(そのために、今日の高1古文4コマが月曜日に移った結果、昨日のスケジュールが地獄の様相を呈しました)し、「合格体験記」の校正もぼちぼち始まりますし、定期テストは近いですし、今週も忙しそうです。そんな中、木曜の夜は井上陽水のコンサートにHさんと同行しますし、土曜午後は56回生Iくんの結婚式・披露宴。よく働き、よく遊び、ですかね。

 学校で3限に高1A組で古文の授業、その後自宅に戻って母君に昼食をお出しし、そのまま学校には戻らず市内のF高校への出張へ。徒歩で自宅近くのバス停に出て、F高校までは西鉄バスで30分ほどです。用件は進路指導に関する協議会で、本当は進路指導部長が出掛けるところなのですが特講があるために私が代行する形。代理出席を詫びる挨拶が10秒ほどあった以外は座って話を聞くだけだったので楽なものではありました。
 食材を買い込んで帰宅、入浴後に母君の入浴のお手伝い。夕食をお出しした後、月・火怒濤の〆とばかりに西鉄電車特急で二日市に出て、「月空」で絶品ももタタキカルパッチョに舌鼓。マスター(63回生Mくんパパ)の美点は、串の提供に際して「茄子が焼けました」と「焼く」ではなく「焼ける」の語を選ぶ奥床しさで、これが年若いバイトの方々にも伝染しているのはなかなかに気持ちが良いです。

 6月1日(土)の大阪遠征(折坂悠太ライブ)は2日(日)に京都連泊を決め、その日の夜は67回生3人とご飯を食べに行く予定(未成年3人はお食事だけ、私は飲む!)。最初はYくんとのサシの予定だったので雑な店で良いかなぁ(失礼!)と思って、京府医大生時代の58回生Iくんがバイトしてた肉料理「馬野郎」を考えていたのですが、後で女子2人(どっちもイニシャルはMさん)が加わることになったので躊躇なう。やっぱ洋食かなぁ、とか思ってたところに、Yくんから「僕もキャピキャピした店が好きです!」というメールが届いて「馬野郎」は中止。どっかおされなバルかなんか探しましょう。っつか遊んでんな、私。

火の玉ボーイ 疲れた顔して去ってゆく

 3時起床、入浴後の4時過ぎから書斎でデスクワーク。本日は授業・特講が3種類あるので、その板書準備から。私はびっちり板書をする派で(書き写しは強制しません)、縦書きの行数が少ないときで40行、多いときで60行超。理由は、そうですね、授業中は教材か黒板かを観て、出来るだけ私を観ないようにして欲しいからということにしておきましょう(案外本当にそうかも知れません)。板書は事前に完全に下書きをしておき、授業ではそれをほぼ一字一句変えることをしません。板書計画をしている間に、50分で話したいネタは大体固まります。板書することについては全て話しますが、話すことを全て板書する訳ではありません。板書準備が終わった後、コンビニでパンとサラダとを買ってきたら6時半過ぎ、そろそろ母君が起き出してくる時刻です。
 母君の朝食を出して(私は朝食を摂りません)、出勤。本日は昼の自宅往復の暇がないので、母君には先程買ってきたパンとサラダとをお昼に摂って戴くようお願いしました。
 1限は高1「木曾最期」、2限が高3『新序』、3~4限が高1「木曾最期」。昼休み・5限の110分で2限の答案を添削し、6限が国語科会議。高3の文系担任の先生方に帰りのSHRで先程の添削答案を返して戴けるよう託し、7限は高1「木曾最期」。今日は特講があるので、8限が高3東大理系漢文で扱う教材が『春秋左氏伝』。

 特講終了時には既に18時を回っており、夜が早い母君はかなりお腹を空かせておられるだろうということで、たまに他の先生方から注意される勢いで自転車を漕いで帰宅。帰宅した私の顔を見た母君は開口一番「今日はお風呂に入らない」と仰ったので、追い炊きをしている間に炊事をして、母君に夕食をお出ししてから入浴。浴槽に入って一息ついてから、漸く「あぁ、お風呂に入らないというのは、私に気を遣ったわけね」と気づきました。入浴のお手伝い、別段大した手間ではないのですが、開口一番だったということは余程疲れた顔をしていたのでしょう。明日の未明添削に失敗してもあれですし、今日は母君の言に従ってお風呂は我慢して戴くことに。

 自宅近くの居酒屋「A」にて軽く独酌読書、21時半に就寝。