おごれる人もひさしからず

 生徒「せんせ~、田中慎弥芥川賞ってなんやったっけ?」
 教員「『共喰い』でしょ?」
 生徒「あれ、映画化されるっちゃろ?」
 教員「そ、監督は青山真治だったよね。主演は……えっと、若手の……菅の字が入った……『W』のフィリップの……」
 ついに、菅田将暉の名前が出てこなくなった私、地デジ難民テレビ離れが末期症状に入ってきてます。
 因みに、その菅田将暉主演の別の映画『男子高校生の日常』の監督がF校出身だということの認知はどれ程のものなのでしょうか。

 高2は外部模試。1時間目の英語を監督しましたが、春の受験時に比して(テストの出来自体はわかりませんが)全体としては意識が向上しているのは確か、途中で寝オチる人が皆無になって来ました。素晴らしいと思う。
 解き終わってないのに寝るのは「中学生」、解き終わった後で寝るのは「高校生」、解き終わっても寝ずに推敲を繰り返すのが「受験生」です。本番受験では誰しもが例外なく「受験生」になります(本番でも俺は解き終わったら寝たぞ、という大学生が居たらごめんなさい)。で、どうせそうなんだったら模試はその時の心身の使い方を獲得する機会と捉え、試験中は「受験生」の態度を想像的に生きて、その繰り返しの中でそれを本番までに身の内に叩き込むのが当然。模試や定期における態度が「中学生」「高校生」のレベルの人間について、本番だけ急に心身が「受験生」として最高の知的パフォーマンスを発揮することはほぼあり得ませんし、例外的に(ビギナーズラックで?)そういうケースがあると仮定したとして、一生一度(にしたいもんですよね、普通)の大学受験の本番でそれに自分が該当する可能性に「賭ける」という態度が、目先の安楽以外に本人にどんな利益をもたらすのか全く想像がつきません。胆力とか言いたいんでしょうか(それなら「胆」の前に「落」を付けた方が良いと思います)。
 私が言ってるんじゃない、東大が言ってるんです。東大志望者・受験者、09年「白」(原研哉)の本文を一度でも読んだことがある人なら首肯して下さるでしょう(大学が外向けに発表する現代文本文、入学したい高校生が必ず演習する本文、そこで言われている言葉を一旦腹に落としてみる、ということをしようとしないならそれは志望者とは言えません)。

 その後、高1漢文の授業を4コマ。実習生H先生に高1に混じって書き下し文の板書をやっていただいたら、附属語を一つ漢字のままで書いてしまわれて。冷や汗をかいておられましたが、数学が本業なんだから別に恥ずかしいことじゃないと思います。

 学校から徒歩で20分、血痰ネーミングショッピングモール「You Meタウン」内のタワレコで、KANA-BOONのデビューシングル「盛者必衰の理、お断り」を購入。書生ロック絶好調、この年になって聴くと歌詞カード無しでは歌詞が聞き取れないので(←おっさんの定型句ですけど、ほんとなんです。ユーミンも中島みゆきも矢野アッコちゃんも、サザンですらも歌詞が聞き取れるんですけど、最近の井上陽水と若い人たちのは……)、帰って歌詞を読みながら聴く。いや~、こりゃ凄ぇや、若いねぇ。