おしえて

 馬鹿話します。
 最近、数学科の先輩先生に「きみは、世の中全部を馬鹿にしとるからなぁ」と言われ、仲良し55回生Tくんが同窓生に「あの人(池ノ都)はみんなを馬鹿だと思ってるから」と言ったという話を聞き。誰かを馬鹿にするというのと、誰かを馬鹿だと思う、というのは別の話ですがまぁとりあえず一緒くたに考えるとして、う~ん、どうなんだろう、と考え込む。全身で尊敬する人と数年間ご一緒できるという理由で職場を選んだ人間ですから、少なくとも「みんなを」っていうのはちょっと違うけれども、大抵のことは茶化す自信があるし実際にそういう風に生きてるから「世の中全部を馬鹿にしとる」というのは当たってるのかもしれない。
 勿論、一番の得意は自分を馬鹿にすること。こんな駄文を毎日毎日書き散らかしてるくらいですからねぇ。

 馬鹿話します。
 自分のクラスの授業で「解けない馬鹿はたまに通る、聴かない馬鹿は絶対落ちる」という発言をしました。言葉づかいは乱暴ですが、本心ですし、事実です。
 そもそも二つの「馬鹿」は意味が違う。「解けない馬鹿」ってのは本当は「馬鹿」ではなくて、勉強して解けるようになればそれで終わる話。「知らない馬鹿」ってのも同じで、知らなかったら聞けばいい、読めばいい、調べればいい。大学も、それまで一年でも二年でも待ってくれます。
 でもって、「聴かない馬鹿」は正真正銘の「馬鹿」です。だって、解けない知らないを解決するための行為、勉強する、聞く、読む、調べる、というのは全て外部からの情報を取り込むという行動ですが、「聴かない馬鹿」はその外部情報を取り込むということができない人を指すからです。
 そもそも、「問題を出されたら解けなかった知らなかった、それで自分が何を知らないのか理解できた」なんていうのは特殊ケースで、大抵の「知らない」は「自分が何を知らないのかを知らない」というものでしょう。となると、外部情報を取り込むという行為においては、取り込む前に「この情報は取り込む、この情報は取り込まない」という風に弁別することは得策ではない、ということは誰にでも分かる話です。即ち、あらゆる外部情報は自分の未知を解決する、あるいは自分の未知に気付かせてくれる可能性を持っている、ということを身体が知っているかいないか、が重要なわけで。
 だからとりあえず全ての情報を取り込んでみる。その上で、それが自分に関係があるから取り込むのか、関係がないから取り込まないのか、関係があるかないか分からないけれどもとりあえず取り込んでおこうと思うのか(この3つ目が大事なんですけれども)、を弁別すればいいんです。こんな情報過多の時代にそんなことが出来るかいっ! っていうのがまぁ予想される反応ですけれども、とりあえずそういう構えでいた方が得策であることは間違いない。
 少なくとも、進学校の生徒が学校の中で生きる、というケースに限定するならそういう構えでいることが必須です。一対一で目と目を合わせて真摯に語られた言葉(面談・世間話)だけは聞くけれども、一体多数の言葉(ホームルーム・授業・集会)はどうせ事務連絡、どうせ定型句、どうせ自分と関係ない話、どうせ知ってる話、どうせ聞いても分からない、どうせ後で個別に教えてくれる、等々の「どうせ」を勝手につけてスルー、みたいな構えで生きてる人のことを正真正銘の「馬鹿」と言うんですね。事務連絡だろうが定型句だろうが誰かの受け売りだろうが熱く語ろうが小声で語ろうが本心で語ろうが仕事で語ろうが好きな先生が語ろうが嫌いな先生が語ろうが、学校内で壇上にいる人間の言葉が生徒の成長・合格の為のものでない筈がないでしょう。そのことを踏まえた上で、「とりあえず情報を取り込む」っていうことの必要性が分かるか分からないか、それが人が「馬鹿」であるのか否かの定義だと思っています。
 「馬鹿」っていうのは、自分宛かも知れない情報に対する感度が低いことです。大学を始めとする知的空間が、そういう手合いだけは共同体に組み込みたくないと思うのは必定。「聴かない馬鹿は絶対落ちる」んです。
 だから例えば、私はいくら環境にやさしかろうが、教室の中に古紙回収ボックスを入れることに反対しています。あんなものがあるから、生徒は配布されたプリントを読まずに、どころか一瞥もせずに、捨てる。「プリント捨てるって学生としてかなりキツイ行動だよ?」って言ったら、「だって、俺に関係ないし」っていう「聴かない馬鹿」まっしぐらの返事が返ってくるわけですよ。本来のF校生って(今でも少なくない生徒がそうであること、は一応付言しておきますが)、プリント配られたらそこまで? っていうくらい読んだもんね。読んだ上で捨てることは勿論、アリです(取り込んだ上での情報弁別)。でも、家に持って帰って捨てるくらいのことはしていい。少なくとも、情報が書いてるものを人前で捨てることを恥ずかしいと思うくらいのプライドが無いとダメです。丸めて捨てるなんて論外で、さすがにあれはものの分かった同級生から笑われてますけれども、「聴かない馬鹿」にはその嘲笑が聞こえない。ってな具合ですから、私は古紙回収ボックスに反対。寧ろ、教員が止めなきゃダメですよあんな制度。

 馬鹿話します。
 上記「馬鹿」のその定義でいけば、私は教師としての力量に著しく欠ける人間だと断言せざるを得ません。何故かと言って、生徒に話を聞かせることが出来ないからです。特に、副担として中3から担任団に入った56回生、担任として同じく中3から担任団に入った63回生に対しては、本当に申し訳なく思っています(し、後者に関しては申し訳なく思いながら仕事をしています)。もっと恐い先生だったら、もっと熱い先生だったら、もっと上手な先生だったら、もっと生徒思いの先生だったら、彼らの中に少なからずいた(いる)「聴かない馬鹿」を減らせたんじゃないでしょうか(だから63回生の中3を一年間やった後に辞表を書いたんですね)。
 唯一の希望は、「聴かない馬鹿」はしかし一日で治るという事実です。だって、生き方の構えの問題だから、気持ち一つでその瞬間から変わる。なるほど人はそんなに簡単に変わるもんじゃない。でも絶対に変わらないものでもないし、変わらなきゃ始まらない。死ななきゃ治らない馬鹿なんて無いですよ、ただ落ちなきゃ治らない馬鹿は何人も見てきました。
 そうはなって欲しくないから、騒がしい教室で、あなたに向けた情報を、聴いてもらえない惨めさ覚悟で、毎朝、無様な姿さらして発信してるんです。

 授業は高2現代文が2コマ。本日より2日間、お盆に帰省しなかった分の代わりというのとちょっとした理由とがありまして、小倉の実家に帰ることに。電車でゴトゴト2時間かけて小倉入りしまして、西小倉駅前待ち合わせの後、食事は小倉では有名なフレンチ店「F」にて。コースではなく単品の料理を2人でシェアする形。料金は、先週が母君の誕生日だということもありまして私が出しました。
 実家では観るテレビ。ナイナイのバラエティで風間俊介と草彅剛とのキスシーン(口移しで小籠包を食べるシーン)が流れていたので、多分日本中の腐女子・ジャニヲタがとんでもないことになったんじゃないでしょうか。録画してもらっていたNHKの美輪様スペシャルも視聴。ヨイトマケも凄けりゃ、徹子さんとの対談も凄い。で、一番驚いたのは有働由美子アナがかなり老けてたように見えたこと。