つかまえた、と壁に映った母の影が言う

 週2回のセンター試験過去問演習授業(現代文)は、毎時B5サイズの解答用紙(横向き)を回収して採点します。右半分に名前・解答欄、左上に前回の平均点と満点獲得者一覧、そして左下に今回の本文と内容のリンクする極々短い資料(センターを解き終わったら余り時間に読める程度)をつける。その、左下に貼る資料に何を選ぶか考える5分間が、今のところ仕事の合間の最も気持ち良い気分転換になっています。前回は藤田省三が遊びを論じた評論問題の資料に、高橋義孝『叱言・たわ言・独り言』の中の小文を付しました。次回は、母子家庭を描いた津島佑子の小説問題の資料に、友部正人「愛について」の歌詞を載せます。

 高橋義孝はドイツ文学者で内田百閒の弟子。F校の二代前の校長先生は高橋氏の弟子でいらしたので、そういえば百鬼園先生の孫弟子に当たるのか、と高橋氏の本をコピーしながら考える。こういう時、生きている知人を通じて死者もまたありありとそこにいる知り合いになる、と山本夏彦が言ってましたね。とすれば私は百鬼園先生の知遇を得ているということになるのか(何とも手前勝手な考え方だけど気持ちがいいな)。確かに、以前又吉直樹せきしろ両氏の手になる無季自由律俳句集(と断定していいのかは分かりませんが)『まさかジープで来るとは』の中で又吉氏の「長い停車が別れを気まずくする」というのを見た瞬間にこれは百鬼園先生の「離愁」だと直感した程度には先生の文章に親しみは感じています……って何を話しているんでしょう。