私と小鳥と鈴と

 浪人生活を送る63回生の激励会が、天神のS予備校にて行われました。80人超が参加し、それぞれが(我らがA組のメンバーも)元気な顔を見せてくれたことが大変嬉しい(A組のメンバーは高校時代とノリが変わらなさすぎるきらいがありましたが……)。

 そこで、幾つかの大手予備校に通っている卒業生が口を揃えて言ったのが、「現代文の授業が先生(←私)と全然違う」「先生(←私)の授業で習ったことを答案に書いたらことごとく×になる」ということ。どうしたら良い? と訊かれて私の答えは一つ。「今の先生のやり方を学びなさい」
 私だけではありません。F校国語科のどの先生だってそうなるでしょうし、A塾の解答をB塾に持って行ったりその逆をしたりしても必ずそうなる。
 そもそもなぜそういうことが起こるのか、と言えば教員・講師各々の読解力とか方法論とかそういうレベルの問題ではないと思っています。多分、各大学の入試現代文では何を求められているのか? という認識(目的)そのものに違いがあるわけです。目指してるゴールが違うんだから解き方だ選語だが変わってくるのは当然。
 例えば。ある生徒が自分が添削された東大第一問のプリントを見せてくれました。本文省略、生徒解答も省略。問(一)で傍線部は「すべての事象は等しく自然的である」(これで東大2000年加茂直樹と気づいたあなたは受験オタク)、添削者の示した解答主語が「自然界の万象は」。これ(「自然界の」という4文字)だけで、この添削者は現代文の解答において「傍線部内の鍵語を解答で定義する」こと(即ちここでは「自然」の定義)を目的とは「していない」ということが解ります。私はそれを目的と「している」ので生徒が答案でこの主語を使ったら「あれ?」と思う、それだけの話です。
 どの先生の「目的」が正しいのかは私には解りません。大昔、東大現代文は本文のコラージュで解答が書けるという「目的」が大ブームになった時には流石に東大が設問に文章の言葉のつぎはぎは不可という文言を入れたことがありましたが。とまあ、そこまで極端な例を脇に置けば、どの先生の「目的」に従おうと決めたってF校生レベルの頭の良さと頑固さとがあれば大丈夫、過去問演習の繰り返しの中で必ずその大学の現代文の求めるレベルが見えますよ、という話。だから、「今の先生のやり方を学びなさい」です。だって、今の先生を嫌だ嫌いだと思いながら勉強しても、楽しくないでしょ。

 それよりも困るのは、同じく卒業生が口を揃えて言う、予備校の先生の他塾批判の激しさ(卒業生の語彙で言うなら「disり」ってやつですね)。先日、福岡のE塾に特別講義にいらした(私も是非行きたかった!)林修先生ですら講義の中で某予備校の解答速報をお「disり」になったというくらいですから、恐らく他者批判は予備校教員の立ち居振る舞いにおける武器だか作法だかになってるんでしょうね。
 現代文の講師がそれだと、生徒は困るでしょう。前述の通りゴールが違う人たちだから絶対交わらないでしょうし、現代文の場合など生徒は教員の人格について行く度合いが強いでしょうから尚更。
 ブーメラン。私が国語の教員として一皮も向ける気配が見えないのには、ついて行くべき人格を持たないという理由があるようでして……。

 定期テスト最終日、私は1限で高3現代文を出題。私の現代文の定期テストを解くのは初めてですから、初回の失敗は出会い頭の事故だと思って諦めるしかない。特に文系諸氏が時間に追われて苦労していましたね(120字の記述が空欄の生徒がかなり多い)。昼過ぎまで採点。
 夕方から出張。63回生担任団が天神に出向き、K予備校・S予備校を回る。卒業生がお世話になっているチューター(担任?)の先生方とお話をして、各生徒の様子を訊いたり質問に答えたりする。その後は激励会、19時~21時。卒業生の近況報告やら今後の添削の相談やら。
 遅くに帰宅して即就寝。明日からは通常授業です。

 東大に進学した63回生某氏とメール。
 某「五月祭の虹コンライブ楽しかったです。プチ同窓会が開かれました」
 私「今日は浪人生のプチ同窓会である激励会。きみは、そっち側の人間で良かったね」
 返しづらいわ、と叱られました。