感動したよ 生存者は今日も笑う

 家に住まう者として、3つある部屋の内の1つしか使いこなせて(っつーか使って)いない、というのは有り得べからざることなのではないかと思い、もっと明るく我が家を愛せるようなポジティブシンキングでいられるよう努めねば、と。
 いつかこの家で、理想の奥さん(私の理想の女性は私よりも少しだけ背の高い方です)と(私に似なかったという理由で)可愛い子どもと、という愛すべき家族と仲良く住まうその日、その日を想像して、っつーか妄想で先取りして、何だったら今日がもうそういう日だという「てい」で、元気に「ただいま!」ってドアを開ける練習をしてみよう、と暇この上ないごっこ遊び。
 を、しなきゃ良かった。ドアの前に立ち「コント、家庭」と言ってから扉を開けて元気に「ただいま!」と発した声が漆黒のフロアで小さく残響する様は寂しいというよりいっそ怖い。その後で私は、リビングのソファに体育座りをして目の前の白い壁を見つめながら、「テレビ……買おう」と決意したのでした。

 6時過ぎに学校に入って、昨日の特講の添削をひたっすら。朝も昼も食べずに昼過ぎまでノンストップ。手が疲れたら、気分転換に別の仕事、例えば月曜日の授業・特講のプリント準備とか、今後出題予定の(問題だけ作って現在ベンチタイム中の)校内模試の問題の見直しとか。
 明日の文系東大現代文特講は08年の難問、宇野邦一『反歴史論』。03年民俗学者小松和彦)、06年宗教学者(宇都宮輝夫)、に続いて今度は哲学者が歴史定義を行います。死者(の記憶)に規定された現在、から私は自由になれるのか? 問題には関係ありませんが、宇野氏は本文冒頭で中島敦「文字禍」を引用してその解釈を誤っています(意図してなのか否かは分かりませんが)。同じ08年に、宇野氏引用部とは別箇所ではありますが京都大学が「文字禍」を出題しちゃんと解釈できますか? と学生に問うているのは正に歴史の偶然で面白い皮肉になっています。

 夜、というにはやや早い夕酒の時刻に居酒屋「S」に入り、ビール・日本酒を飲みながら内田良氏の新書を読む。小中学校における組体操批判で話題の方ですね。
 私の通っていた小学校は(他の公立校がどうなのかは知りませんが)運動会の練習が厳しくて、行進の時に足がきちんと上がっているか(90度の角度に曲がっているか)を先生が大きな木の三角定規を当てて確かめに来るような感じでしたから、F校に入って初めて体育大会の練習に参加したときにはしみじみと感動したものでした。「た、体育大会が……ヌルい!」

 というわけで、内田良『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』読了、★★★★。学術書ではなく、新書。きっと集められる限りのデータを網羅して誠実に調査しておられるのだとは思いますが何しろそもそもの総量が少ないのでしょうね、本書のデータは質量共に充実しているとは言い難い(為に、持論補強のための恣意的な取捨選択を疑われても仕方ない)レベル、「エビデンス」という用語を用いて自己の調査活動の意義を強調するのは逆効果でハッキリ言って辞めた方が良いと思います。ですが、兎にも角にも教育現場の現実を暴露して問題提起をするという一点において、「現れるべくして」の本です。
 全然知らなかったのですが、小中学校の組体操って、凄いことになってたんですね。21世紀に入ってからの急速な高層化・低年齢化を見せる人間ピラミッド(『WATER BOYS』の影響とかがあったりするのかな)。9段だ10段だ、って完全に常軌を逸してます。私の出身校・勤務校であるF校は今年騎馬戦すら自主中止を決めましたが、そのF校以外の学校のことを全く知らない私には、10段のピラミッドなんて地獄以外の何物にも見えません(高身長の私は多分一番下になるんでしょうね)。
 取りあえず、印象だけ一言。【教員は団結力達成感を教える他の方法への思考を放棄するな、見苦しい。保護者や市民は自分の子他人の子問わず子供で感動しようとするな、浅ましい】