ごきげんよう

 TSUTAYAのレンタル返却期限が今日だったので、早朝のリビングで映画『舟を編む』を観ました。主人公(松田龍平)が国語科の後輩先生にしか見えないのに終始笑いのツボを刺激されましたが、内容は(原作の小説同様)面白く、かつ「昼からの仕事を頑張ろう!」と前向きになれる作品でした。
 さて、作中で「右」の語釈を「10を書いたときに0のある方向(大意)」としていました。これには「1ではなく」という付言が必要でしょうか、否でしょうか。かつてF校は、中学入試の200字作文で素材に辞書の語釈を用いています。「右」は東西南北の方角を用いて定義できるのに「北」は前後左右の方向を用いて定義できない、その理由を説明する。私も採点に入らせてもらったのでよく覚えているのですが、「絶対・相対」の語をきちんと使える小6がいたのには「ほう」と感心させられたものです。勿論、その語を知らずに(用いずに)きちんと説明した受験生もおり、それまた凄いのですが(数学で習う概念を使わず、算数の道具だけで難しい問題を解くような感覚でしょうか)。
 松田龍平の主演作を観るのはこれが3本目でした。『昭和歌謡大全集』『悪夢探偵』『舟を編む』。映画を観る趣味を持たない私が(続編を除けば)同一俳優の主演作を3本も観るというのは本当に珍しいので、特にファンだという訳ではないつもりですが縁のある俳優さんなのかも知れません。

 TSUTAYAでDVDを返却して『夏目友人帳』の最新作を購入。そのまま学校に出かけ、11時~19時まではノンストップでデスクワーク。今日は、授業準備と学級通信の作成。明日から高1の現代文が始まります。
 大昔にも書いたことがあるのですが、授業で壇上に立っている間の私が最も強く感じている感情は「羞恥」です。特に専門を持つわけではない(上にジェネラリストにもなれない)現代文の教員が、よそ様が書いた文章を我が手柄みたいなしたり顔で解説するというシチュエーションに対し、(職業的努力でそれを隠すことは出来るとしても)羞恥を感じない教員はいないのではないかと推察する次第です。しかし、それをおして猶、私は現代文の授業が最も好きです。やっぱり、個人として良い文章を読むのは面白いし、あの人とあの人が同じことを言ってるという事実から倫理の方向性を想像するという営みを誰かと(要するに生徒と)共有するのはとても喜ばしい体験ですし。
 今年は、高1現代文の授業をがっつりやれますし、週に3回だけですが高3の(漢文の)教壇にも立てますし、授業的にはとても恵まれている年度だと思っています。

 私「……とは言ってもやっぱり担任っつーのは向いてないと思うわけよ。ああいうのは『黙って俺について来い』みたいな威厳ビシビシの『俺様ッチョ』な人がやるもんなんじゃないの? もやしがやるもんじゃないでしょ?」
 マ「まだ言いよる。というかいけのっちゃん、それが言いたくてもやし鉄板とか珍しいのを注文したの?」

 21時には布団に入ったのですが、23時までは全く寝付けず。あ、明日の初授業、私随分緊張しているみたいです。