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天才だのって書いたんだぜ まわりの人やそのスジの人に

 無題3段落。
 市役所に用事があり、仕事中、年休を取って90分学校を抜けました。行きはタクシーですが、帰りは45分の徒歩。帰り道の途中、ちょっと寄り道をして、明日の職員室忘年会の1次会の店から2次会の店まで実際に歩いてみました。ら、素面の私の足で7分。ということは、酔っ払った団体が歩いたら15分ってとこ。しまったなぁ、昨日配った案内状には徒歩10分って書いちゃってます。
 勉強・生活のヌルさには定評(?)のあるA組ですから掃除だってダラダラ、なんですけれども中に信じられない程マジメに黙々と箒を操る女子がいたりして。何故なんだろうと常々訝しんでおりましたら、その理由が今日の3分間スピーチで判明しました。中学時代に「無音掃除」というのを強制されていたんだそうです。曰く、私語は勿論、机や椅子を運ぶときに音を立てるのも厳禁。幸田文のファンでありながらこういうことを言うのはなんですが、家庭のしつけならともかく学校でそれって虐待じゃねーのか、と。
 先週のリベンジのつもりで二日市「月空」に出かけたら、忘年会シーズン予約満席という返り討ちに遭いました。マスター(63回生Mくんパパ)からは「折角来て頂いたのにすみません!」と謝られましたが、流石の繁盛は喜ばしいことなので、と自分を納得させて西鉄電車とんぼ返り。っつか、土曜の二次会を考える時の幹事力を今日働かせなかった(金曜の人気店に空きがあるかの事前電話をしなかった)私が悪いんですね。というわけで、夜は結局「もりき」。団体さんが鴨コースを注文していたのでその場の注文でも材料(鴨つみれ)があると踏んで、贅沢ながら鴨鍋を注文。「もりき」だとマスターや常連さんと話すので本は読めません(今日は「月空」で独酌読書のつもりだったんですが)。
 
 及び、無題。
 A組生徒の何人かが、学年(或いはクラス)の中に「天才」が居る、と思っているらしく違和感。確かに閾値を超えたら判定不能になるというのは分かりますが、67回生高1に「あなた」の閾値外の人、本当に居ますか? と問いたい。「遊びの天才」とかまぁそういうのは別にして話を受験勉強という観点のみに絞るならば、現高1に「天才」は居ません、と断言。「天才型」や「天才風」は居ても「天才」は居ない。
 高1定期テストの上位者綺羅星群は、どの人も並ではない努力家で言わば「大秀才」。これは悪口ではなく褒めている訳で、成程「2年連続歌会始入選」とか「2年連続数学オリンピック世界金メダル」とか「全国模試国語1位で九医に首席合格」とか「校内模試8割超えの文系で防医も合格」とか「東大二次のセンター・数学・英語・理科が全て(120点中の)100点超」とかそういう「天才」には及ばないとしても、努力型の「(大)秀才」こそ自他に誠実で社会に求められることは言うまでもない。現高1は(特に内進B~E組において)自分が「秀才」である(入試を突破した人間に「凡才」は居ません)ということをある意味で謙虚に受け止めて努力が出来る人が多いことが美徳で、これは生徒自身の素質(人格)でもあるでしょうし中学時の担任団の先生方のご尽力でもあるでしょう。
 繰り返しますが、話を受験勉強レベルに絞るなら高1には「天才」は居ません。努力して上を目指すだけです。「秀才」の努力は美しい。みっともないのは「天才型」や「天才風」が自己の才能を過信して(或いはそれが努力無しで何とか一流に通用するものであることをひたすら願って)何にもしないことです。これがもう、本当に物の役にたたないんだわ。
 以上、F校にて中高6年間と就職後の13年間、稀に見られる「天才」と数多い「秀才」、及び少なくない「天才型」「天才風」と接したり見送ったりした経験から、典型的な「秀才」が一言語ってみました。
 私は高校47回生だったんですけど、「天才」、何人か居ましたね(2人以上居たってのがもう凄いことだと思います)。そのうちの1人であるでっくんからは超可愛がってもらった(寮の部屋も何度も一緒になって)んですけど、国語科恩師先生といいでっくんといい、横に居るだけで「王沢」を浴びてるって実感があるあの時間、本当に何にも代えがたいものなんですよねぇ。あ、29日のTQC忘年会、でっくんに集合場所を伝えとかなくちゃ。ゲテモノ、嫌がるかなぁ(にこにこ)。

 矢野顕子『やのぴあ』読了、★★★★★。40年の矢野山脈、清水ミチコによるインタビューも好かったし盟友による思い出話も興味深かったけれど、何よりも糸井重里の「今の」矢野さんの分析が圧巻でした。