月ときつね屋

 始業式が土曜日という日程だったので、春休みの課題テストは10日・11日(月・火)、本日の生徒は終日自宅で学習(のはず)。一方教員である私には全くノルマがなく、午前中は学校で仕事をして午後に小倉往復……くらいのつもりだったんですが、朝の電話で事情が一変。
 久しぶりに書きづらい日記ですが、書ける範囲で、以下。

 朝、母君が身を寄せている小倉の職場から携帯に電話があり、母君を救急車で小倉の「S」病院に緊急搬送した、と看護師の方に説明されました。昨日の夕食ごろまでは心身とも落ち着いていたのですが、夜中頃から壮絶な嘔吐が始まり、前に「最終手段として考えている」とその看護師の方から言われていたその手段であるところの救急車にお出まし願ったという流れ。
 丁度風呂上がりの時間に電話を受けたので、そのまま着替えて急遽小倉へ移動。K駅→小倉駅で乗り換え無しの新幹線がピッタリのタイミングで私を運んでくれたので、こういうタイミングの良さは幸先が、なんて。電話口の看護師さんの口調が落ち着いていたこともあり、多少感情はざわついていましたが、新幹線内では本を読む程度の余裕はあり。

 駅からタクシーで「S」病院へ。看護師さんと携帯でやり取りをして時間外入口で落ち合い、母君の居る階に直行しました。「S」は母君が今回の肺癌で手術を行った病院で、私が到着した時には母君はCTを撮っている最中でした(緊急だったためか造影剤は無し)。事前に様子を聞いていたので予想はしていましたが、CT室の外まで母君の空嘔吐きの声が聞こえてきます。
 勿論母君は即入院で、CT室から移動ベッドに寝かされた状態で病室まで運ばれるのですが、その上でのたうち回って苦しまれておりここは筆舌謝絶で記述カット。まぁ、食べられない・眠れない・歩けない・頭の痺れと空嘔吐きとが止まらない、という端的に拷問状態な訳でして、看護師さんからも事前に聞いていましたが100%脳の腫瘍が原因。過去2回の小脳転移(ガンマナイフでやっつけました)の時は自覚症状がなかったのですが、3度目の今回は初めて症状が出たのです。

 果たして脳浮腫が原因だったと後で聞かされるその症状を抑える薬は点滴にて、ということで病室(ベッド3床の部屋に母君だけ)にて先ずは点滴準備。母君は空嘔吐きの合間の譫言で盛んに「暑い暑い」と仰有います。以前、肺を取る手術をした後のベッドでは「寒い寒い」と仰有ってたので、「ここの病院って暑かったり寒かったり色々なんですかねぇ」とか母君に聞こえてないのを良いことに適当な独り言で相づち打ってるフリ、要は息子はずっとオロオロしているだけ。
 さて、点滴(ステロイドと、後なんだっけ、忘れました)の間は私・職場の看護師さんは待機しておく他ないので、休憩スペースで母君の昨夜の様子を伺ったり、この後の治療の流れ(の予測)をお話したり。

 CTの結果を呼吸器の先生から。
 先「お母様ですが、これは勿論来週K市の病院でMRIを受けてもらうまでは厳密にどうだとは言えない訳ですが、間違いなく脳に2つ以上の転移があって、肺の中にも小さな転移が多発状態で起こっています。肺の方は本当に小さくて今すぐ悪さをすることはありませんが、脳の方が緊急で、こちらが今の症状の原因になっています。脳浮腫と言うんですが」
 私「済みません『フシュ』って漢字で書いていただけますか? あぁ、分かりました。腫れてるってことですね」
 先「その腫れを抑えるお薬が効けば、症状自体は癒えるでしょう」
 私「心肺停止・呼吸停止ってここ(検査結果を書いた紙、私は写しをもらいました)に書いてありますね」
 先「脳の話ですので、このまま放置したらそこに至る可能性も無いではないという意味で、一応書かせてもらいました」
 私「そうなんですよねぇ。さっきお話した通り、無治療経過観察の2年間半、自覚症状が出たことが無かったんですね。それで私、多分こちらの方(←母君)もそうだと思うんですが、死ぬような病気に罹ってるという事実を忘れていました。反省です。以前こちらで肺を取る手術をして頂いたとき以来、それを思い出した感じです」
 先「無治療というのは珍しいですが、忘れるというか、慣れてしまうというのはあるかも知れませんね」
 私「そうですね。もしも手術後もこちらの病院でお世話になるとなった場合は、確か分子標的薬の何とかというお薬を使うという説明を受けた記憶があります」
 ……まぁ、2年半も働かせてもらえたんだから、良しとするしかないんですかねぇ。

 さて、先に休憩室で母君の職場の看護師さんと話した今後のこと、来週のMRIまでは小倉の「S」病院(要は今居られる病室)に入院、その後K市のF校親玉大学病院でMRI、この「S」病院での検査結果も大学病院に送られるはずでその後はガンマナイフだろうが全脳照射だろうが投薬治療だろうが兎に角入院は必須な筈で、いずれにしても暫く職場には出られなくなります。でもって、時間はこの時点で12時。
 私「折角小倉に来た訳ですし、『N苑』(←母君の職場)にご挨拶に行かないといけませんね」
 看「丁度、理事長が休日出勤していますから、今日の結果と暫く職場に出られないであろうことを直接伝えられたら良いと思います。場所は分かりますか? 送りましょうか?」
 私「タクシーで行きますので大丈夫です。駅ビルかどこかでお土産を買わないと行けませんね」

 丁度お昼時だったので、小倉のソウルフード(?)である「はるやうどん」にて肉うどんを食べて、「井筒屋」の地下でお土産を購入。タクシーで母君の職場「N苑」へ向かいました。小学生の時に数度の訪問がありますが、伺うのは20数年ぶりということになります。
 受け付け窓口の女性に名前を名乗って、理事長様にお目にかかりたい旨お伝えしたら、ご本人でいらっしゃっていきなり頭を下げまくることに。母君から年齢を伺っていたのですが、それよりもずっとお若く見えたので全く気がつかなかったのです。
 お土産をお渡しして、母君の本日の検査結果、先に看護師さんとお話をした今後の治療(の予想)についてお話しし、来週のMRIの結果が分かったら直ぐにお伝えすることをお約束しました。理事長様からは、母君の普段の職場での様子を(かなり好意的な見方で)お伝え頂き、お優しい励ましのお言葉も頂戴しまして恐縮でした。回復の暁には、再び「N苑」に戻れるよう、母君本人も私も願っている旨をお伝えし、余り長居するのも失礼なので20分ほどで辞去。
 帰りは、丁度最寄りのバス停から「S」病院までほぼ直行の便が出ていた(発車3分前にバス停に到着でした。タイミングの良さ!)ので、それに乗って。車内ではスマホでゲームの36歳、ちょっと疲れた時には、な~んにも考えなくていいRPGレベル上げなんてのが打って付けなのです(ゲームは『DQ3』)。因みに、バスに揺られた時間は30分、「S」病院は実家直ぐそばなので、要は実家と母君の職場とはバスで30分の距離ということになります。ここに自転車で通ってたって言うんですから、まぁこの2年半、割と大変な労働をしていたんだなぁ、と。

 病室に戻った時には、薬って本当に効くんですね、母君の様子はだいぶ落ち着いておられ、会話も普通に出来るようになっていました(疲労困憊ではありましたが)。前述の地獄の苦しみはご本人にもかなりのショックだったそうで(そらそうだ)、もう一回これを味わうならいっそ以下略とのお言葉(地獄の名残は臭いに現れ、空っぽの胃からの嘔吐きと嘔吐との果てに胃酸の臭いが漂うのがお辛いそう)。私も、母君が人が死ぬ病気に冒されていることを2年間も忘れ果てていたことを申し訳なく思う旨。

 明日も必ず訪問するお約束の後、夕方に病院を出てK市に戻りました。明日は課題テストで半ドンです。採点は後回しにして、取りあえず昼から小倉往復をすることになります。K市の自宅に18時に冷蔵庫が届く(先週金曜の予定でしたが、母君のご病気の都合で延期していました)ので、それまでにはK市に戻らないといけません。
 新学期の出だしから慌ただしいですが、何とか学年に迷惑をかけないようにしないとですね。頑張ろ。

 K市の部屋に着いた直ぐ後に、母君から電話がありました。薬って本当に効くんですね、「味が分かって久しぶりに固形物が口に入った」んですって。それ聞いた瞬間にへたり込みましたよ。良かったって感じるよりも前に、あぁ、私、こんなに疲れてたんだぁ、って。