メカ沢がどう変わったんだ?

 生徒指導部で「男く祭」担当の先生から、講演P(Project≒係)の担当を頼まれて、諾。とは言っても、「男く祭」は完全に生徒の自治で行う行事なので、講演依頼の最初のメールもその後のやり取りでの講演料・宿泊費その他の打ち合わせも全て生徒が行い、教員が口を出すことはありません。以前、内田樹氏に63回生が講演を依頼した時も、森達也氏に64回生が講演を依頼した時も、講演前日の(後援者と講演Pメンバーとの)打ち合わせに関しては、会場に連れて行く引率までは行いましたが、打ち合わせの間中はずっとテーブルから離れた椅子に座って待機していました(飲み物も食事も、教員には出ません)。今年も、どなたに講演依頼を送ろうとしているのか、ぼんやり想像はつきますが生徒には聞いていません。
 そう言えば先日、中3~高2を対象に、文化祭の呼称に関するアンケートが行われたんでした。中学共学化が完成し(初の中学共学化学年、即ち我々67回生の高3を前に)、「男く祭」という名称を変えるか否かの投票です。変更案として最も高支持率だった「青く祭」との2択は、男女ともほぼ5:1で「男く祭」を指示する結果でした。無論、ここに教員の意図は全く介入していません。個人的には、妥当な結果だと思っています。調査対象から高3を外したのは失策(過去への軽視)だと思う私は、文化祭が本当に祭りなのであればその主催は「現成員」ではなく全ての「先行者」だと考えるのです。毎年、「男く祭」にはその年の文化委員が考える副題がつきます(「男女驚愕」だった年もありますね)。当面は、「現成員」の意図の表出はそのレベルで良いのではないかと思います。いずれ必然性が生じれば、また変更論は浮上して来るでしょう。
 教員が不介入と言いながら思うところを述べたのは、勿論自分が祭りの主催である「先行者」(用はF校のOB)の一員だからですね。

 さて、高2現代文の授業は中沢新一の贈与論「Not I, not I...」、『純粋な自然の贈与』の一節です。10年前なら「メカ沢新一」のモデルと言えば即座に通じても今は通じませんね。もしかしたら、村上陽一郎古畑任三郎のモデル(になったと言われている)と言っても今の生徒には通じないのかな。
 で、肝心の中身も通じにくい。贈与はエロスの(結ぶ)力に基づく倫理の世界、売買はロゴスの(分ける)力に基づく論理の世界、と言って生徒に解るかと言えば解りません。でもこちらには策があります。何かいい例え話はないかなぁ、と布団の中で考えて思い出したエピソードは、61回生高3の東大理系漢文特講の1シーン。本文冒頭には慣用表現の「借書一痴、還書一痴」、これは七五調なら「本を貸す馬鹿返す馬鹿」と訳して「所有する知は秘匿せよ」の意。これが自他分離のロゴスの論理。ところが、61回生Sくんは「本を貸す馬鹿返す馬鹿」と正しく訳した上で、「本は貸さず与えよ、返さず別の人に回せ。知は広めて共有せよ」と解釈した。これが自他連帯のエロスの倫理。集団全体に知が広がる「環」に「贈与の霊」の息吹を感じれば勝ちですね。

 朝の生徒面談、1限の数学テスト監督、2限の学年会議、授業4コマに、昼休みは芸術週間の生徒演奏鑑賞、放課後は生徒面談の後で長い長い会議。
 夜は「もりき」独酌。明日から3ヶ月は「鴨」の帰還です。牡蠣・鴨・蕪、が入ったら年暮れの合図なのかな。