強い力で俺を導く世界 なんてどこにもないのさ

 朝の書斎で作業。BGMはゲルニカのライブ盤。出勤後は一日デスクワーク。書類作成や封入、学年通信への寄稿文等々。
 7限は学年集会で、私は教務部からの話(10分弱)として、第4回定期考査の成績が良かったこと、これからの半年は「非日常」(男く祭・スキー研修・部活や委員会の引き継ぎ)と受験生の「日常」とを両立させる必要があることを説明しました。この「日常」と「非日常」とは、どちらの為にどちらが犠牲になってもいけない、もう両立以外有り得ない概念です。その理由を説明したお話の中から以下、抜粋。

 【抜粋始め】
 1浪で志望校に通った「合格体験記」に、「浪人はしたけれど、高校で●●(部・委員・P)に打ち込んだ体験は後悔していない」などと書く人がいます。良い台詞に見えますし、主観的にはその通りなのでしょう。でも、客観的に見れば、少なくとも私には「寒い」です。
 それは、「●●に打ち込んでいなければ浪人していなかったかも知れない」という可能性の表明が自己弁護(浪人の言い訳)になっているから、ではありません。そうではなくて、この表明が自分の愛して止まない「●●に打ち込むこと」の(受験校における)デメリットを自ら読者(後輩・保護者・教員)に喧伝しているという事実に気づけない他者意識の欠如を露呈しているからです。
 「●●」を本当に愛しているならば、それが学校の日常にも益する(少なくとも害しない)という事実を、勉強との両立で示さなければなりません。「●●」に日常の勉強そっちのけで打ち込んで、それが愛する「●●」へのネガティブキャンペーン(勉強しません!)になっていようがただ自分が楽しければ全く問題なく、その「●●」への悪印象という負の遺産は後輩にはいどうぞ、みたいな振る舞いは「愛する」における形容矛盾、「●●」を愛しているのではなくただ何かに夢中になっている自己への陶酔に過ぎません。
 「学校」という枠組みの中では、「非日常」の活動に打ち込むことの「定義」の中に「日常」への義務があります。だから、冒頭の「合格体験記」ならば、「高校では●●に打ち込んだことが財産になった。でも、それを自分への言い訳に勉強への手が緩んだ甘さを強烈に後悔している。●●にも申し訳無い」と(例え主観とは違っていても)書かなければならないのです。
 【抜粋終わり】

 夜は、自宅近くの肉料理「I」で独酌読書。先日、高2の某女子生徒に市内の美味しいお店を教えた中に「I」も入っているのですが、彼女は金曜日にご一家で訪問するそうです。