ぼくの一日を ぼくが生きるのを

 63回生を一緒に担当した超ベテラン体育先生とPC室で隣同士になって。
 体「しばらく飲みに行ってないねぇ」
 私「年度初めって忙しいですよねぇ」
 体「ほんと。こんな忙しいのにさぁ」
 体・私「「なぜ、皆飲みに行かずにいられるのか!?」」
 私「明日、連れてって下さい」
 体「ちょっと待て、明日飲みに行ったら、明後日は4時間授業の後で『男く祭』の準備やろ……よし、行こう! 俺は市内にホテルを取る!」
 恰好良すぎて眩暈がしそうです。

 さて、本日は高3現代文センターの授業が5コマ。初めて小説教材を扱うのですが、今回も63・64回生の時と同じく2006年の松村栄子『僕はかぐや姫』を選びました。元の小説自体は他愛ない(←やや気を遣った言い回し)作品ですし、高校生の喫煙シーン等が当たり前のように出てくるので入試にはちょっとと思われるかも知れませんが、そういうのを微塵も感じさせない本文の切り取り方で問題が作られており、クイズ(現代文の作問)好きとしては「よくぞここから」、とこれはもう嫉妬を超えて感動のレベルです。
 そして、主要登場人物2人が「僕っ娘」ということが出題直後にネットで話題になったのも記憶に新しいところ。毎年、センター直後に現代文(特に小説)の問題の面白さがネタとして「炎上」するのが恒例になっていますが、記憶にある限りその嚆矢が『僕はかぐや姫』なんじゃないかなぁ、などと。今でも、「センター 僕はかぐや姫」などで検索するとそこに言及している人が少なくないようですね(余談ですが、それに関してセンター試験の作問者を「センター試験の中の人」と呼んでいる人がいてちょっと面白かったです)。
 閑話。村上陽一郎「自己の解体と変革」の中で、自文化のコードを全て脱いでしまった人間はそれは最早人間ではない(大意)という記述があるのですが、他者から期待される「らしさ」の全てを拒否したいとひたすらに願う『僕はかぐや姫』の主人公が「虚ろに弱々しくもあった」というのもそこに通じるものがあります(小説と評論とを絡めて説明すると生徒は混乱するのでそれはしませんが)。

 こだま『ここは、おしまいの地』が切ないです。念願の教職を学級崩壊の心労で辞し、同業の夫も過労心労……と、真摯に教職に対峙する故の悲惨はどこにでもあるのでしょう。