子を思ふ故にまどひぬるかな

 3時起床、昨日の東大理系特講の添削を書斎で。入浴後、7時前に起き出して来られた母君に朝食を出してから出勤。午前中は授業がなかったのでデスクワークで、自宅往復で母君に昼食をお出しした後、4限が文系東大コースの二次対策授業。

 昼食に自宅まで往復をする時には、自宅徒歩3分のところにある惣菜屋「O」に寄ります。日替わりで15種類程度のメニューが量り売りの形式で販売されているのですが、大・中・小とあるカップの「小」が丁度母君のプレートの1/4を埋めるのに丁度良い分量を入れることが出来て大変便利なのです。スーパーの惣菜コーナーに売っているマカロニサラダやポテトサラダなどは大体それより量が多くて、だからといって2回に分けると分量が、という完全な帯・襷状態なので困ってしまうのですが、この「O」の小カップなら、例えば春雨サラダ55gとか、冬瓜そぼろ煮63gとか、1品につき100~150円程度で美味しい物が買えるので、毎日4品程度を購入することにしています(500円ちょっとの値段ですが、500円でカードにスタンプを1つ押してもらえます)。
 大体、手作りのものと「O」の惣菜とが半々くらい。毎回、何か一品は自分で作った物を入れることにはしていますが、「O」がなくなった生活は想像したくないなぁ、という状態です。

 さて、4限の東大文系34枚の添削を昼休みに始めましたが、5・6限が両方会議で埋まっていたので帰りのSHRの段階で進捗は僅かに25%。放課後の京大文系特講の添削もやって来ますし、明日も未明の添削は確定です。
 さて、本日放課後の京大文系は02年後期の古井由吉「《文学》に包囲された作家」。大衆メディアに流布する言葉の俗流象徴性を「文学的」と呼ぶ古井氏は、個別の現実認識を拒否して何事をも象徴として見る「眼」と、象徴を現実らしく見せかけるレトリックばかりを紡ぎ出す「手」と、による「文学」を厳しく批判しつつ、作家として自己を戒めます。完全なメディア批評なのですが、これは確か新聞コラムだったはずなので掲載した新聞は偉い(メディア批評ということは自社批評でもあるからです)。今、そんな度量のある新聞社・出版社がどれほどあるのか……というこの書き方も、まあまあ「文学的」ですね。ただ、これが今の新聞に載らないであろう理由はもう一つあって、恐らく多くの読者にこの文章の意を読み取れる力がないだろうから。同じく京大が21世紀の後期試験で出題した上田三四二「地上一寸ということ」も確か新聞コラムでしたが、要するにちょっと前の(作家による)文人コラムは、今では京大を受験しようかというような人が読めるか読めないかというものになっているんですね(18歳で読めないなら、恐らく38歳でも58歳でも読めません)。
 さて、前述の「文学性」を読むたびに頭に浮かぶのは「心の闇」なる語。「人の親の」の藤原兼輔を引くまでもなく、この語は親から子への愛情を巡る語だというのが1000年の伝統だったという理解(この理解は少し大袈裟ではありますし、尾崎紅葉「心の闇」のような例もありますが)。それなのに、たった20年でこの語は子が親を殺すような狂気の根源を指すようになった。96年神戸のケースならば「心の闇」が即応したのかも知れませんが、その後あまりに多く「心の闇」の語が使われるようになったせいで、象徴を現実と見せかけるレトリックにこの語が掬い取られていったんですね(子どもの狂気を核に、今では異常心理全般を指す象徴語になりつつある様子)。仕事柄、この語を聞くと何となく暗い気分になります。

 特講終了は17時30分。18時30分まで添削をやって根性で文系東大の方を終わらせ(特講前半の生徒解答時間にも添削をしています)、帰宅後に母君のお食事を作って入浴。19時半に近所の居酒屋「A」に入って読書独酌。ここ最近読了本がないのは、忙しいという理由もありますが、『脇役本』が少しずつ少しずつ味読すべき本だからです。
 21時半就寝。