動けないならこの手握ってけ

 母君が大きな病を得るのは今回の肺癌が初めてではなく、私が大学を卒業してF校で勤務し始めたその3月~6月(2004年)に1ヶ月弱の手術入院を要する事態に陥りました。3月の東大卒業式に絶対上京臨席すると言ってきかれない母君と、必要が無いという私と、割と大きめの口論の末絶対に折れることのない母君が押し通された格好で上京をなさった。のですが、そういう時に限って起き上がれないくらいの体調不良に見舞われる。這々の体で卒業式には臨席なさった後、ホテルに帰ろうというのに予約しているからとお祝いの銀座「久兵衛」にてランチを食べたのですが20000円も払って美味しくない(何にでも柑橘をかけてんじゃねぇ! と大学生の私は思いました)しそもそも体調不良の母君の口には殆ど入らない。重い心身を引きずってホテルのベッドに横たわった母君の喉に夕食は通らず、深夜23時近くになって突然「バナナが食べたい」と我が儘を仰るのに勝てない私はコンビニを回って見つけられず(当時のコンビニに果物はありませんでした)最後に漸く閃いて閉店間際の「スターバックス」に駆け込んで1本ゲットする(当時のスタバにはバナナが売ってました)というリアル『こんな夜更けにバナナかよ』状態。それで翌日ちょっと元気になられてるのがいっそ腹立たしいと思っていたら、定期的に痛みが襲ってくるその原因が子宮筋腫だと5月に判明しました(この時には、既に母君は小倉、私はK市に別れて住んで互いの仕事で「日常性の維持」をやってました)。小倉の病院に入院の母君は当時携帯電話を持たず、病院の公衆電話と私の携帯電話とで毎日会話はするのですが私の仕事が忙しく毎日小倉に帰るのはとても無理……あ、当時はK市と小倉とを40分強で結ぶ新幹線なんてなくて、移動手段は2時間超の高速バスだけでした。私が病院に通えるのは週末だけという状態です。
 手術、6月某日。その時は流石に年休を取らざるを得ず、私は就職して初めて年休届けを書きました(今ほど気軽に年休を取れる度胸は当然無かったです)。理由を書かなくても良いという社会常識を知らなかったので、「母の手術」と書いて心配されたりしました。で、結局色々あって子宮と卵巣とを全摘出したんです(後で母君は「男になってしまった」と仰いました)が……また面倒くさい母君の性格がここでも発揮されて、脊椎麻酔を拒否して手術に臨まれたのです。手術後に担当のお医者様に摘出した卵巣・子宮を見せられ(「私、ここに入ってたのかぁ」とかクソみたいなことを思いました)、そのまま母君の横たわるベッドが置かれた部屋に連行されたのですが、脊椎麻酔拒否の帰結として当然ですが、もう激痛による苦しまれ方が尋常ではない。苦しそうに唸ってお出で(「唸る」って敬語にするのが似合わない動詞ですねぇ)で、私が横に立って「Y子さん(←二人称)」と呼びかけても耳に届くことはなく、勿論私が息子であるということなど判別もつかず……と思ったら、私が息子であるということを理解しておられるというのを、直後のお言葉で私は知ることになります。
 母「池ノ都くん(←二人称)、ベッドで苦しんでいる利用者さんが居るのよ、どうして声かけしないの!?」
 ここまではっきりと淀みなく発音した訳では勿論ありませんが、ざっとこのようなことを仰る。親子の以心伝心は、今の母君がどういう状態であるのかということを即座に私に解らせます。母君、何だったらちょっと幽体離脱みたいになっておられるらしく、ベッドの横に立つ私の横に立たれてベッドの上の母君を見下ろしておいでなんですね。そして、当時の母君は老人ホームの現場で肉体労働をしておいででしたから、ベッドに横たわるのは「利用者さん」で、私は「池ノ都くん」という名前の後輩部下になっているらしい。となれば、お付き合いしない訳にはいかないわけで。
 私「声かけ、とは?」
 母「名前を呼ぶに決まってるでしょう!」
 私「……Y子さぁ~ん」
 母「だめ! 声が小さい!」
 私「Y子さあああああん!」
 母「まだ足りない! もっと!」
 私「わぁうぃぃくぅおおぅすゎああああああああああああああんんんんんん!!!!!!!」
 母「もっとおおおおっ!」
 室内の医療従事者3人、全員顔を後ろに向けて震えていたことを私は覚えています。

 母君と病院に行く時(月2回の通院と、上京時の入院と)のタクシーの中では、いつもあの時のことを思い出します。病気としてのインパクトはその12年後の肺癌の方が遙かに上だし致命的なんですけれども、ネタとしてのインパクトであれを上回るものはなく、私の中には心配や悲しみや苛立ちやといった様々な感情は勿論あるものの、それと共に病気ってちょっと面白いというイメージが拭い難く存在しているのです。
 例えば去年の12月1日、初めて母君のお風呂を「介助」ではなくて「介護」した日、私にとっての「介護記念日」にも、浴室で母君の全身を泡立てたタオルで優しく擦りながら、ぼんやりと「あれ、僕、今、嬢みたいじゃない? 風俗嬢みたいじゃない? 清水アキラの営業ネタみたいなことしてない?」って思ったら少し面白くなってきましたから。

 さて、本日。
 朝、母君を迎えに「N病院」にタクシーで向かったら、母君が歩けなくなっておられました。

 病院からの説明によると昨夜本人から「腰を痛めた」との申告があったそうなのですが、一夜明けてみたら足が殆ど全く動かない。杖をついても立っていることすらお出来にならず、私が横から抱えて支えて辛うじて歩けるかどうか。病院からのススメで病室からタクシーまでは車椅子で移動しました。意識ははっきりしてお出でです。マンションに到着してから自宅までは私が肩を貸して半ば引き摺るようにして。リビングのソファに腰かけて頂いてから、さてどうしようかと途方に暮れる。
 まず、今座ったソファから立ち上がることが出来ません。11時過ぎにお食事をお出ししたらそれは全て召し上がって、どうやら食欲その他体調に異常はないご様子。ただ、立てない・座れない・歩けない。具体的に言えば、トイレに行けません。

 このまま足が萎えて動かないというならば果たしてこれまでのような二人暮らしを続けることができるのか、というような「長い目」で物事を考える(兆す不安に心を預ける)余裕はこの時にはありませんでした。昼過ぎに、生徒と面談があるのです。
 B組某くんが、大学進学後の奨学金の権利を得るためのプレゼンテーションを前に、その内容をチェックして欲しいという依頼を受けて承諾していたのですね。プレゼンの本番は明日ですから、どうしても昼過ぎに面談しないと間に合わない。で、これに合わせて学校に行くなら自宅を2時間は留守にしないといけない。その間、母君は全く身動きが取れない。

 というわけで、母君を抱えてトイレにお連れした後、再び抱えてソファに座って頂き、TVをつけました。母君に「2時間だけトイレを我慢して下さい!」と生まれて初めてこんなこと言うお願いをしてから、自転車をかっ飛ばして学校入り。
 某くんのプレゼンテーションは、内容には改善点がありましたがフォーマットはきっちりしていて、面談・相談は90分ほどで済みました。これ以降の具体的なやり取りはメール(添付ファイル)で行うようにして、15時過ぎに自転車をかっ飛ばして自宅に戻ります。

 「申し訳無い」とか「絶対に歩ける」とか色々仰るけれどもとにかく身体は全く動かない。6泊も病院に閉じ込めた報いというか、まぁ要は「病は気から」なんじゃないかと思うんですけれども(何というか、身体が「足の動かし方を忘れてしまった」状態なんじゃないかと想像)、調べれば肉体的・病的な原因が見つかるやも知れませんし、明日になっても足が動かなかったら病院に行こうと決めました。夕食を作ったらそれも全て召し上がりまして胃腸は丈夫なのねぇ、と。
 で、病院ではあまり入れなかったからお風呂に入りたいと仰る。仰ったらきかない方ですから抱えましたよ。久しぶりの「介護の日」ですよ。この時にちょっと面白いと思ってしまう悪癖が出まして……

 ……後日、進路指導室にて事務嬢さんと。
 私「40年間近く女性に縁の薄い生活を送ってきて」
 嬢「はぁ」
 私「その集大成が全裸の母親と風呂場でフォークダンスってさ、神様どないなっとんねん、って思いません?」
 嬢「(腹抱えて悶絶)笑っちゃいけないんですけど、いけないんですけど!」

 ……ちょっと面白いじゃんか、と思いながらお風呂の介助。身体拭いて着替えさせてお布団に寝かせてまで終わらせた後、「1時間で戻るからお手洗いは我慢して!」と言い残して「もりき」へ。山芋鉄板納豆入りを肴に瓶ビール2本、日本酒1合。根性で1時間で帰りましたよ。どんな日だって、私は飲む。

 母君はまだ起きてお出ででしたので、今日は私が隣の部屋で寝ること(布団ではなくて炬燵で寝ます)、夜お手洗いに行きたくなったら必ず私に声をかけて欲しいこと(抱えられることを恥ずかしがったりとか私に遠慮とかしてお召し物やお布団を汚すことだけはしないでほしいこと)、をお伝えしてから就寝。21時に寝て、呼ばれもしないのに22時・23時・0時に目が覚めました。仕方ないですね、今日は「介護の日」ですから。
 まぁ、あれだわ。言い方は不謹慎ですけれども、二次試験にも卒業式にも影響を与えない形で身体を壊された母君は、実は教員の母の鑑なのかも知れません。