君が微笑んだ時 地球に平和が戻るさ 激走戦隊

 健康起床、入浴・サウナ、荷造り郵送チェックアウト、の後で渋谷へ移動。チェーンのカフェで1時間ほど読書と「キャンディ・クラッシュ」。Bunkamuraから松濤を歩いて東大駒場キャンパスへ徒歩移動。ランチ待ち合わせは11時40分だったのですが30分ほど早く到着したので、構内のサークル・部活の立て看板を眺めながら散歩をしていました。今日は手続きウィークのエアポケットだそうで、構内には学生の姿が殆ど無く、いっそ一般の方々の方が多いくらいです(小さな子連れのお散歩家族が何組も)。で、散歩の途中で待ち合わせ相手であるところの67回生B組Tくんとばったり会ったので、そのまま二人で立て看見物。
 Tくんは外進高1Aの時から3年連続私が担任を務めたのですが、2度の面談で喋ったのが二人の間の会話のほぼ9割を占めるんじゃ無いのかという寡黙、声出して笑ったのも私がその無口っぷりを「ハシビロコウ」と命名した時だけという。
 私「でもさ、3分間スピーチが趣味の競馬についてだったよね。おっ、って思った」
 T「東大にも競馬のサークルがあったんでちょっと惹かれたんですけど、何かこう本気すぎる集まりで入っていけませんでした」
 プログラミングとか漫画とかに興味があるんでしたっけ、趣味に合いそうなサークルはいっぱいある、というかいっぱいありすぎて困るってとこかな。まぁ、そういうのが楽しい時期、羨ましいですね。
 T「先生は何のサークルでしたっけ?」
 私「クイズ研究会。今は『東大王』とかで有名だけどね、昔は全然」
 T「どんな所だったんですか?」
 私「陰キャ梁山泊
 T「(笑)」
 前記『東大王』などの影響で有名人も多数輩出・学生クイズ界の中心で活躍しまくってる現在とは違って、20年前の東大クイズ研究会は異端末端、王道のクイズとは全く違う変化球の問題ばかり扱う(メンバーの中には、王道のクイズを押さえた上で遊んで居られる方も、そっちは無視して遊んでばっかの方も居ました。私は後者でしたね)極々小さな集団で、ミレニアム頃には「東大風」というジャンル命名がなされたほどでした。でも、18期だけでもオツカル様・がっ様・でっくん・遠ちゃん・北白川くん・アラリン・リンリンですからね、こんな知的(重要)・痴的(尚重要)密度の濃い同世代集団なんて、「凡百の東大生」に過ぎなかった私などでは金輪際経験できないレベル(少なくとも、正直、教養学部の語学別クラスとは雲泥でしたし、学部進学後の研究室でもやっぱり届いてないと思います)。だからですね、最近色々な人に訊かれる20年前のTQCに返して判で押したように使う「陰キャ梁山泊」という語、大抵の人は自虐ギャグとして割とウケてくださるんですけれども、私はマジで使っていますし、自虐よりは自尊心を込めて使っているつもりですのよ。

 閑話休題。Tくんと駒場構内で待ち合わせした理由は二つありまして、店が松濤にあるので駒場から歩いて序でに帰りは渋谷に出てみよう(渋谷~駒場の徒歩移動経路を教えよう)というのが一つ、書籍部で「逆評定」を購入しようというのが一つ。学生割引で購入するTくんに2冊買わせて1冊をもらい、今日のランチは本代の御礼に奢りましょうという「体」を作りました。
 裏門(?)を出て、「山手ラーメン」の場所を教えて(美味しいよ!)、松濤へ向けて徒歩徒歩。目的の店は「SANS DECONNER」、オープン1年未満だと思うんですけれども、気取らず入れるフレンチで二度目にして早くもお気に入り。
 前菜・メイン・デザートを(2種類の内から)選択できるランチコース、私はパテ・ド・カンパーニュの前菜、ロメインレタスとブリのメイン、プティングのデザートを選びました。Tくんは3つとも私とは違う種類を選んでいたので、私のお皿の料理も一口ずつ分けて。
 美味しい料理を堪能しつつ、話題は始まったばかりの独り暮らしについて。
 私「自炊さん?」
 T「この間、初めて料理を作りました。料理って言って良いのか、それを表す名前の無いようなものを」
 私「とは?」
 T「いや、肉と野菜とを適当に炒めて」
 私「『肉野菜炒め』じゃん」
 T「あ、それです」
 タメ年だったら「それな」という所でしょうか(Tくん、そういう言葉遣いはしなさそうですが)。
 フォークとナイフ(これがまたよく切れるんだわ)とを恐る恐る使う若さ、食べるのが遅いというより丁寧に丁寧に切り分けて食べてておぉ、育ちがよい。私の食べるのが(教員病で)早いのと、さらにその内1/3くらいをTくんの皿に移してるのとで、平らげるスピードの差は開いていく一方です。
 私「っつか、Tくん、ちょっと痩せたよね?」
 T「昼頃起きて朝昼兼用の食事をして、夜もあんまり」
 私「……学校、ちゃんと行きなさいよ?」
 T「それは、大丈夫です」
 私「追跡調査するからね」
 T「はい」

 さて、12時オープンのフレンチでランチを摂っている私なのですが、13時過ぎの山手線で品川に向かわなかったら確実に飛行機に乗り遅れるという条件がかなりの無理ゲーっぷりを醸していることを、デザートの時までTくんには隠しており、二人が食べ終わったのが12時50分で。
 私「割と、お腹いっぱいになったでしょ?」
 T「はい」
 私「で、Tくん、走れる?」
 T「? はい」
 私「じゃあ、渋谷まで走ります」
 食った後にいきなり走れなんて巫山戯んなという話ですが、うふふ、お会計の伝票をチラとご覧になったTくん、本代の御礼がコレかよというインパクトに断ることが出来ません。というわけで、松濤美術館からハチ公前まで激走します!
 T「どこまで走るんですか!?」
 私「駅まで走る! 後10分後の山手線に乗り遅れたら飛行機に乗れない!」
 T「10分で着くんですか?」
 私「肌感覚では8分ってとこ!」
 Bunkamuraドンキホーテ、元祖くじらや、109!
 駅前の信号に到着したのは店を出て6分後。信号待ちの二人、息を切らしてます。
 私「……勝った。走らせてご免ね。でも、渋谷までの道は覚えたでしょ?」
 T「はい……こんなに走ったの、初めてかも知れません」
 私「アラフォーのオッサンにはね、正直キツいんだけどね」
 T「いや、何か若いですよ」
 私「若くない。オッサンだよ。証拠がある」
 T「何ですか?」
 私「……今の自分、ちょっと格好いいって思ってるもん」
 T「(大笑い)」
 よっしゃ、「ハシビロコウ」以来の満点大笑い戴きました。というわけでどさくさ紛れ、私「黄金週間って、帰宅しないでしょ? 上京するから、また食事に行こうよ」 T「いいですよ。予定調べておきます」 私「追跡調査ね」

 息を整えて山の手線に乗り、渋谷→品川→羽田空港羽田空港着が離陸予定時刻の20分前で、15分前丁度に手荷物検査をくぐり、搭乗口に到着した時には優先搭乗案内が終わっていました。機内では読書。そろそろ飛行機にも慣れて、離陸・着陸時以外は落ち着いて本を読めるようになっています(離陸時と着陸時とは手に汗握ってます)。

 福岡空港からは高速バスでK市まで直通。タクシーに乗って、途中スーパーに寄って夕食の材料を購入してから帰宅したのが18時過ぎ。母君はかなりお疲れの様子でしたが(朝夕の訪問看護・介護及び昼夜の配食と「来客が多い」のがいちばんのストレスなのですね)、身体に異常はないご様子。食欲は全くということなので夕食はパスして(果物だけ切りました)、入浴後にすぐにお休みにななられました。
 ならば私にとってそれは「しめた!」もので(嗚呼、親不孝)、お土産を携えて速攻で「もりき」へ。10年前は開店前の小上がりでジュース飲みながらミニ海鮮丼とか食べてて「客より良いもの食べてるね~」と声をかけてもぽかんとしてたような姉弟、あの時は小学生でしょ、でもって今は二人とも大学生。そのお二人へのお土産が10年前と変わらない甘味だというのは芸がないというか若者を舐めてるような気がするんですけれども、奥様曰くまだ甘いものが嬉しいとのこと。

 旅行中に読了の本を順番に。読了は4冊のみですが、かなり時間をかけて読んでいます。
 よしながふみきのう何食べた?(15)』読了、★★★★。ちょっと前に読んだ大島薫の対談集では、某さんがゲイカップルがそうそう簡単に添い遂げられるなんて幻想で老後ぼっちがわんさか出てくるんだからそれ専用のシェアハウスなり老人ホームなりってのが(大意・以下略)、という切実な事情が語られていましたけれども、この漫画の中の理想のカップルだけは(二人とも確実に老いていってるんですけれども)稀有な例で居てほしい、と漫画と現実とをごっちゃにしながら。でもって、漫画とドラマとはいったいどういう関係になるんだろう、とある種の戦々恐々。良作であって欲しいなぁ。
 北田暁大『終わらない「失われた20年」 嗤う日本の「ナショナリズム」・その後』読了、★★★★。『嗤う日本の「ナショナリズム」』が相当面白いと思った……のが2005年なのか、時間が経ったなぁ。あの時は、俗流アイロニズムシニシズムを批判するその筆致が冷静なのに凄いなぁ、大人だなぁ、と思ったんですけれども、あれは相当頑張って抑えてたのかなぁ、と「その後」を読んで。上野千鶴子さんに関する論考・対談あたりが頂点でしたけど、この本の中の筆者、憤怒失望その他の感情を隠そうともしてないです。もともとが熱い人だったのか、「失われた20年」がそうさせたのか。思い出すのは、同じ社会学者の作田啓一『恥の文化 再考』です。1967年の著書の中で、将来の資本主義的競争社会が行き詰った果てに弱き(虐げられた)人々は必ず緩く連帯する(「羞恥」の共感で繋がる)と予言した作田氏。資本主義的競争社会の行き詰まりはまさに世紀末に到来し、「羞恥」の共感で繋がるためのツール(ネット空間)も世紀末ごろから整い始めたんですけれども、残念ながら2005年の『嗤う日本の~』で北田氏が批判した「2ch」のような言説空間ばかりが目立つようになり。そんな中、作田氏がまさかのブログ開設、そしてその筆名が「激高老人」! 気持ちはわからんでもないけど「激高」て。「羞恥」の連帯はどこに行ったのよ、とびっくりした記憶があります。冷静から情熱(っつか「激高」)へというの、北田氏も作田氏も同じだなぁ、と。当たり前ですけれども、社会学者の根底には社会への関心と愛情とがあるんですね(「社会」の定義は棚上げしてます)。
 声優グランプリ編集部『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』読了、★★★★★。戸田恵子大山のぶ代平野文という名前が同じ本に入ってて買わない訳がない。そして嗚呼悲しやここにも小原乃梨子様の名前が入っておられない。インタビュー、読みたいよぅ。『声に恋して 洋画とアニメと私自身と』(1999年)が今のところ最後の自伝で、その後の20年(『ドラえもん』降板前後以降)のこと、知りたいよぅ。
 田中圭一『若ゲのいたり ゲームクリエイターの青春』読了、★★★。『うつヌケ』良、『ペンと箸』最良、を経て今作、の流れは自然だとは思いますが、残念ながら私にそこまでゲームへの興味がなかった。