ここに ここにはいない あなたに語りかけよう

 5時入り職員室での始業前3時間半、本日の私は久々の「マリオ無敵」状態。10年前か、っつーくらい身体が動いてくれて、東大文系現代文25枚の添削、校内模試浪人生85枚の採点(の残り半分)と解答解説作成・データ集計、水・金・土の授業(中高合わせて3種類)のプリント準備、職員室のゴミ箱整備、が全て終了。そのまま1~4限は進路指導室で校内模試の出題者講評のまとめ、高3プレステージの他校比較資料(職員会議用)の作成。昼休みと5限とで2種類の授業の板書計画、及び今朝急に頼まれた木曜の某飲み会の予約(絶品焼き鳥屋「Y」でコース&飲み放題)と参加15人分の案内プリント作成。6限に文系二次型授業、放課後は一橋現代文特講(この答案30枚は明日の5時から職員室で添削)。
 文系二次型授業は京大理系12年の林達夫「文章について」。88年文理共通で出題した文章と全く同じものを本文に使った出題に、理由が分からず「???」となった受験関係者は多いでしょうが、それも同年起こった携帯電話カンニング事件のインパクトで吹っ飛んだ記憶。さて、書き言葉における肉筆原稿と活字原稿との違い、及び書き言葉と話し言葉との違いを論じた本文と問題とを解説した後、蛇足5分と断って本題を話す。名文「現代社会の表情」(『歴史の暮方』収録)で筆者が人間の言語の二つの機能を挙げ、言語には「理性の言語」と「命令の言語」としかない、と昭和16年に断じたことには本当に崇敬の念しか起こりません。「政治的論議の場所に足を踏み入れてみれば」「概して動物臭いのは」政治の言葉が「命令の言語」だからだが、理性称揚の近代においては「命令の言葉」も「理性の言葉を摸倣」する他ない。「命令の言葉もしばしば理性の名において理性を蹂躙する」と(繰り返しますが昭和16年に)警鐘の筆者に、政治家が政治とは「命令の言語」の場だという事実を隠しもしなくなった現状はどう映るのでしょうね。
 一橋大学特講(内田樹200字要約)の後、明日の中3の漢文の授業準備をしていたら、先の第一回校内模試で国語「だけ」平均的な点数を取ってしまったが故に1000点満点の平均が奈良時代(710超)に留まり平安時代(794超)に行かなかったことを悔やむ生徒が、国語を上げる相談にやって来られ(先に言っておけば、平均が500もありゃ東大が十分以上の確率で狙えます。600、700は現役時代の私なら「神の領域」と呼びました。私の4回平均は558です)。理解力ではなく「作法」の問題です、とお答え。本文に「近代」「現代」とあり、設問で「近代以降の○○について論じた論旨を踏まえ」とあった時に解答に「近代」「現代」の「○○」についての定義が入っていないなら、精緻な読み取りや解答の表現にどれだけ腐心しても点は望めません。本文を読む「角度」が出題者と違うんですから。繰り返しますが、記述の試験は出題者(である大学教授)との非対面式コミュニケーション。コミュニケーションの為の手がかりは、設問傍線部リード文語注解答欄の長さ、という紙の上に残る出題者の振る舞いの痕跡です。自分は本文が読めたと言って「それがどうした」と返される残酷さに腐らず、それでも大学で逢いたい先生への「憧れ」を貫く姿勢を保って下さいね。入試現代文ってはっきり言って得点源的な「手段」にはならない科目ですから、それに対して取り得る態度は二つで、コスパが悪いなら無意味と捨てるか、「手段」ではなく「目的」そのものだと構えを変えるかです。
 医学部に進んだって、現代文はついて回りますよぅ。明日、某大学医学部に進んだ56回生が来年から働く病院の採用試験的な課題小論文1000字を添削して欲しい、ってのにつき合うことに。K市在住さんだから、昼過ぎに原稿もらって添削したら、それを返すついでに夜はどっかに飲みに行こうぜ、ってなりました。楽しみ。