月ときつね屋

 始業式が土曜日という日程だったので、春休みの課題テストは10日・11日(月・火)、本日の生徒は終日自宅で学習(のはず)。一方教員である私には全くノルマがなく、午前中は学校で仕事をして午後に小倉往復……くらいのつもりだったんですが、朝の電話で事情が一変。
 久しぶりに書きづらい日記ですが、書ける範囲で、以下。

 朝、母君が身を寄せている小倉の職場から携帯に電話があり、母君を救急車で小倉の「S」病院に緊急搬送した、と看護師の方に説明されました。昨日の夕食ごろまでは心身とも落ち着いていたのですが、夜中頃から壮絶な嘔吐が始まり、前に「最終手段として考えている」とその看護師の方から言われていたその手段であるところの救急車にお出まし願ったという流れ。
 丁度風呂上がりの時間に電話を受けたので、そのまま着替えて急遽小倉へ移動。K駅→小倉駅で乗り換え無しの新幹線がピッタリのタイミングで私を運んでくれたので、こういうタイミングの良さは幸先が、なんて。電話口の看護師さんの口調が落ち着いていたこともあり、多少感情はざわついていましたが、新幹線内では本を読む程度の余裕はあり。

 駅からタクシーで「S」病院へ。看護師さんと携帯でやり取りをして時間外入口で落ち合い、母君の居る階に直行しました。「S」は母君が今回の肺癌で手術を行った病院で、私が到着した時には母君はCTを撮っている最中でした(緊急だったためか造影剤は無し)。事前に様子を聞いていたので予想はしていましたが、CT室の外まで母君の空嘔吐きの声が聞こえてきます。
 勿論母君は即入院で、CT室から移動ベッドに寝かされた状態で病室まで運ばれるのですが、その上でのたうち回って苦しまれておりここは筆舌謝絶で記述カット。まぁ、食べられない・眠れない・歩けない・頭の痺れと空嘔吐きとが止まらない、という端的に拷問状態な訳でして、看護師さんからも事前に聞いていましたが100%脳の腫瘍が原因。過去2回の小脳転移(ガンマナイフでやっつけました)の時は自覚症状がなかったのですが、3度目の今回は初めて症状が出たのです。

 果たして脳浮腫が原因だったと後で聞かされるその症状を抑える薬は点滴にて、ということで病室(ベッド3床の部屋に母君だけ)にて先ずは点滴準備。母君は空嘔吐きの合間の譫言で盛んに「暑い暑い」と仰有います。以前、肺を取る手術をした後のベッドでは「寒い寒い」と仰有ってたので、「ここの病院って暑かったり寒かったり色々なんですかねぇ」とか母君に聞こえてないのを良いことに適当な独り言で相づち打ってるフリ、要は息子はずっとオロオロしているだけ。
 さて、点滴(ステロイドと、後なんだっけ、忘れました)の間は私・職場の看護師さんは待機しておく他ないので、休憩スペースで母君の昨夜の様子を伺ったり、この後の治療の流れ(の予測)をお話したり。

 CTの結果を呼吸器の先生から。
 先「お母様ですが、これは勿論来週K市の病院でMRIを受けてもらうまでは厳密にどうだとは言えない訳ですが、間違いなく脳に2つ以上の転移があって、肺の中にも小さな転移が多発状態で起こっています。肺の方は本当に小さくて今すぐ悪さをすることはありませんが、脳の方が緊急で、こちらが今の症状の原因になっています。脳浮腫と言うんですが」
 私「済みません『フシュ』って漢字で書いていただけますか? あぁ、分かりました。腫れてるってことですね」
 先「その腫れを抑えるお薬が効けば、症状自体は癒えるでしょう」
 私「心肺停止・呼吸停止ってここ(検査結果を書いた紙、私は写しをもらいました)に書いてありますね」
 先「脳の話ですので、このまま放置したらそこに至る可能性も無いではないという意味で、一応書かせてもらいました」
 私「そうなんですよねぇ。さっきお話した通り、無治療経過観察の2年間半、自覚症状が出たことが無かったんですね。それで私、多分こちらの方(←母君)もそうだと思うんですが、死ぬような病気に罹ってるという事実を忘れていました。反省です。以前こちらで肺を取る手術をして頂いたとき以来、それを思い出した感じです」
 先「無治療というのは珍しいですが、忘れるというか、慣れてしまうというのはあるかも知れませんね」
 私「そうですね。もしも手術後もこちらの病院でお世話になるとなった場合は、確か分子標的薬の何とかというお薬を使うという説明を受けた記憶があります」
 ……まぁ、2年半も働かせてもらえたんだから、良しとするしかないんですかねぇ。

 さて、先に休憩室で母君の職場の看護師さんと話した今後のこと、来週のMRIまでは小倉の「S」病院(要は今居られる病室)に入院、その後K市のF校親玉大学病院でMRI、この「S」病院での検査結果も大学病院に送られるはずでその後はガンマナイフだろうが全脳照射だろうが投薬治療だろうが兎に角入院は必須な筈で、いずれにしても暫く職場には出られなくなります。でもって、時間はこの時点で12時。
 私「折角小倉に来た訳ですし、『N苑』(←母君の職場)にご挨拶に行かないといけませんね」
 看「丁度、理事長が休日出勤していますから、今日の結果と暫く職場に出られないであろうことを直接伝えられたら良いと思います。場所は分かりますか? 送りましょうか?」
 私「タクシーで行きますので大丈夫です。駅ビルかどこかでお土産を買わないと行けませんね」

 丁度お昼時だったので、小倉のソウルフード(?)である「はるやうどん」にて肉うどんを食べて、「井筒屋」の地下でお土産を購入。タクシーで母君の職場「N苑」へ向かいました。小学生の時に数度の訪問がありますが、伺うのは20数年ぶりということになります。
 受け付け窓口の女性に名前を名乗って、理事長様にお目にかかりたい旨お伝えしたら、ご本人でいらっしゃっていきなり頭を下げまくることに。母君から年齢を伺っていたのですが、それよりもずっとお若く見えたので全く気がつかなかったのです。
 お土産をお渡しして、母君の本日の検査結果、先に看護師さんとお話をした今後の治療(の予想)についてお話しし、来週のMRIの結果が分かったら直ぐにお伝えすることをお約束しました。理事長様からは、母君の普段の職場での様子を(かなり好意的な見方で)お伝え頂き、お優しい励ましのお言葉も頂戴しまして恐縮でした。回復の暁には、再び「N苑」に戻れるよう、母君本人も私も願っている旨をお伝えし、余り長居するのも失礼なので20分ほどで辞去。
 帰りは、丁度最寄りのバス停から「S」病院までほぼ直行の便が出ていた(発車3分前にバス停に到着でした。タイミングの良さ!)ので、それに乗って。車内ではスマホでゲームの36歳、ちょっと疲れた時には、な~んにも考えなくていいRPGレベル上げなんてのが打って付けなのです(ゲームは『DQ3』)。因みに、バスに揺られた時間は30分、「S」病院は実家直ぐそばなので、要は実家と母君の職場とはバスで30分の距離ということになります。ここに自転車で通ってたって言うんですから、まぁこの2年半、割と大変な労働をしていたんだなぁ、と。

 病室に戻った時には、薬って本当に効くんですね、母君の様子はだいぶ落ち着いておられ、会話も普通に出来るようになっていました(疲労困憊ではありましたが)。前述の地獄の苦しみはご本人にもかなりのショックだったそうで(そらそうだ)、もう一回これを味わうならいっそ以下略とのお言葉(地獄の名残は臭いに現れ、空っぽの胃からの嘔吐きと嘔吐との果てに胃酸の臭いが漂うのがお辛いそう)。私も、母君が人が死ぬ病気に冒されていることを2年間も忘れ果てていたことを申し訳なく思う旨。

 明日も必ず訪問するお約束の後、夕方に病院を出てK市に戻りました。明日は課題テストで半ドンです。採点は後回しにして、取りあえず昼から小倉往復をすることになります。K市の自宅に18時に冷蔵庫が届く(先週金曜の予定でしたが、母君のご病気の都合で延期していました)ので、それまでにはK市に戻らないといけません。
 新学期の出だしから慌ただしいですが、何とか学年に迷惑をかけないようにしないとですね。頑張ろ。

 K市の部屋に着いた直ぐ後に、母君から電話がありました。薬って本当に効くんですね、「味が分かって久しぶりに固形物が口に入った」んですって。それ聞いた瞬間にへたり込みましたよ。良かったって感じるよりも前に、あぁ、私、こんなに疲れてたんだぁ、って。

船が見えます

 朝のホテルツインにて起床、7時にお迎えに来てくださったS氏に母君をお引き渡しし、チェックアウト後に自宅経由で(着替え・入浴)出勤。学校入りは8時を過ぎており、新学期初日バタバタの日なのに出足から遅れ気味。
 始業式と新任式。今年から、校長・生徒指導部長が新しい先生になり、それぞれが長めの着任挨拶。新任紹介では英語科に配属になった(私と同じ年の)先生が代表挨拶でしたが、お話を少し聞いただけで直ぐに分かりました、「これは悪者(わるもの)の系譜だ! 逸材だ!」

 私が勝手に定めたF校教員の一カテゴリに「悪者(わるもの)」というのがあります(「悪人」とは違います)。条件は以下の通り。
 ①滅茶苦茶遊び好き
 ②宴会大歓迎
 ③年令より(且つ誰に対しても)腰が低い
 ④ネゴシエーション大得意
 ⑤必要な時には敵を殺せる
 以上、①~⑤だけだと単なる隠れヤクザでしかないですが、ここに加えて
 ⑥教科に関して滅茶苦茶仕事する
 というのが必須でして。例えば私は①・③・⑤に欠ける所があるので該当しません。63回生担任団なら、数学担任先生は「悪者」、体育担任先生は元「悪者」ですが今は大ベテランだから「親分」、主任理科先生は傾向はあるけれど③~⑤がやや弱いかな、というところ。この「悪者」と密に人間関係を結んでおくと、職員室の日々が大変楽しいんです。
 というわけで、英語科新任先生とは積極的に仲良くして頂きたいと思った所存。

 話は戻りまして。初日から「我らが」の形容をつけて良いものかは分かりかねますが、とにかく今日から高2B組がスタートです。文理混合41名のクラス(文系男子8名・文系女子11名・理系男子22名)で、私というもやし中年の「みちび機」で2年間を過ごさなければならない彼ら彼女らの運命を思うと自然と涙が。でもって、初日から暫く(1~2週間くらい?)は人間関係様子見状態で(私を含めて)みんな温和しいもんですから、学級委員・書記・「男く祭」コーラス委員・指揮者、等々をほいほいと決めたら後は諸連絡でお仕舞い。
 41名の中に、元高1A組だった生徒は11人。出席番号1番の才女からは「本当に成績だけで分けたんですか?」と(学級日誌日直感想で)訝しがられましたが、本当にコンピューターが弾き出した結果なんです。

 さて、夜は先ほど「悪者」から進化して「親分」になった我らが63回生体育先生、そして63回生「日常性の維持」担当の東大教育学部Eくんと3人で飲み会。こないだ新歓(テント列)でお会いした(っつーか朝飯奢った)後、急転直下の勢いでダブルダッチサークルに危機が訪れたという話(詳細秘す)を手に汗握って聞きながら、ビールビールビールビールワインビールビール。どか食いEくんですからイタリアン一次会の後に二次会中華料理なんて軽いもんという勢いで、おじさんと「親分」は胃がもたれて大変なんです。

 母君は無事に小倉に着かれ、職場に準備されたベッドで療養中とのこと。電話でお話をしましたが、栄養士の方が準備して下さったお好み焼きの夕食(母君のリクエストメニュー)を完食された、と気分上々の様子で何より。

TESLA doesn’t know how to cry

 さてさて、親不孝が服着て歩いてるみたいな国語教師、本日のお目覚めは市内ホテルのツイン、横でお休みの母君を起こさないように洗顔、タクシーで一旦自宅に戻って着替え。この時点で6時半。7時に開店の中華粥のお店で持ち帰りを注文してからホテルへ。既にお目覚めの母君に食べられるかどうか一口、でしたが塩味がきつすぎて受け付けられませんでした。レンチンの(普通の)お粥を買ってくるしかないですね。
 母君をホテルに残し(同部屋で連泊します)、8時前に学校に入ってデスクワークを色々。明日が始業式ですので、仕事はどんだけでもあるんです。今日は、月曜日に出題する課題テスト(現代文50点分)の作成・印刷が主な業務。

 昼前に一度ホテルに戻り、やはり症状が一向に改善されない(夜中にも何度も嘔吐いておられ眠れない様子だった)母君と再び徒歩で「S」病院へ。ですが、やはり看護師の方の言葉は昨日と同じで、食事が取れない母君の点滴についても「出来れば口から食べて頂きたい」ということなので(母君自身の意向もあって)今日は行ってもらわないということに。
 はっきり言って背負った方が早いんですけれども、F校生が歩いているかも知れない西鉄構内でそんな目立ち方しても仕方がないので、肩を貸して徒歩、西鉄構内の和食処にて、母君が「口から食べる」ことが出来るかどうかの実験。何を食べても苦いという味覚障害、煮麺を注文して1/3程をゆっくり、ゆっくりと(私はアイスクリームを注文)。

 「智恵子はもとの智恵子となり」ではないですけれども驚いたこと。病院内でも外を歩くときにもふらっふらの状態だった母君がたった2度だけ「シュン!」と輝いた瞬間があって、それが待合室の見知らぬ御老嬢に声を掛けられた時と、病院前の公園で植えられた花の香りを感じられた時と。前者は介護の仕事で、後者は野草・街路樹観察の趣味ですね。やっぱり、こういう時に人間は生き返るんだなぁ、としみじみ。

 昼食とも呼べない昼食の後、母君は再びホテルのお部屋で横になり、私はタクシーで学校に出向いて仕事の続き。明日からの牙城(?)になる高2B組の教室の板書準備をして、入口に生徒座席表を張ります。寮生は今日から寮に戻りますし、通学生も学園祭の準備で学校に来ている生徒は多いですので、このクラス分けの名表は今日の内にオンラインで生徒に拡散されることになるでしょう。

 タクシーでホテルへ。途中、小倉の病院で処方箋を受け取ったまま放置していたというエンシュアリキッドを近くの薬局で受け取って、スーパーであれこれ液体・ゼリー状の食料品を購入。
 少しずつ少しずつ、口に入れられるだけ入れるということを繰り返すしかない状態。昨日は夜中に一度嘔吐があったので、これはもうシジフォスの努力なんじゃないかと暗澹。隣で見てるだけの人間が勝手に落ち込んでも仕方ないですが。

 夕食はホテル近くの居酒屋、事務嬢さんから「お薦め」と言われていた通り、初入店ですが良い店でした。ホテル暮らしで幹事力アップ、これをお仕事に還元出来そうなこと「だけ」が今回の収穫かしら。
 母君は、明朝に小倉へ戻ることになりました。勿論、自分一人では移動は不可能、何と母君の職場のSさんがまたもや朝5時発でお迎えに来てくださるとのこと。小倉では、職場であるところの介護施設にベッドを準備して下さるそうです。看護師も介護福祉士も栄養士もいらっしゃる環境で、夜も知己の人物が近くにいる環境が母君にとっていちばん良いだろうというご配慮。有難いやら情けないやら、愚息はこれに完全に甘えます。

 さて、明日からの新年度、親不孝が服着た国語教師は、41人のクラス生徒(209人の学年生徒)にどの面下げて会いに行くのでしょうか?

達磨林檎

 0時過ぎに目が覚めて、何故かず~っと寝られないまま2時頃からは諦めてベッドで読書。徒然なるままに出勤は5時。本日は9時から長い(新年度を控えた)職員会議なので、それまでは自由にデスクワークを。
 職員会議は、新校長先生(Wikipediaに立項されている著名な言語学者)の挨拶から始まり、新年度を控えた各部・学年からの所信表明や事務連絡がず~っと(途中休憩を挟んで)続きます。昼過ぎまでかかる職員会議が終わった後には、職員室の机の大移動(私は高1エリアから高2エリアへ移動)が行われて正しく上を下の大騒ぎです。

 で、例年ならあ~仕事が忙しかった、明日は新クラス(高2B)の教室準備だ、で一日を終えられるんですけれども、今日はそうはいかなかった。というか、職員会議の途中から引っ切りなしにかかってくる私的な電話に対応しなければならなくて気が気ではなかったというのが正しく。

 会議の休憩時間に事務室から「外線電話あり、折り返しの電話を至急」という伝言を受けたのですが、その「外線」が母君の職場(介護施設)からだったのを見て嗚呼、と。睡眠過多でもないのになんで眠れなかったんだろうと思ってたらやっぱり同時刻に垂乳根の人が苦しんでいたからなのかしら、なんて瞬間的感傷。
 まぁ、職場からの連絡があるとしたら「倒れた」に決まってますね。
 というわけで折り返しのお電話を差し上げたところ職場の同僚(母君の部下?)の方がお出になり、果たして通院先の小倉の病院(自宅徒歩2分、最初に肺癌の手術を受けた病院)にて動けなくなり、今は車で職場まで運んで休ませている最中だという話。症状としては、頭のしびれや味覚障害や空嘔吐きやというのを伺っている(というかこの間実際に拝見した)のでそれがどのようなものなのかは想像出来ます。

 一旦電話を切らせて頂く。
 母君が現在お世話になっているF校親玉大学病院に電話で問い合わせをして、動けないので来週のMRIまで入院をさせてもらう等の何らかの処置は出来ないかを問い合わせたものの(大病院ですから当たり前ですが)ベッド不足で不可能なので12日のMRIを待って欲しいというお返事。
 それではと過去2回のガンマナイフを受けたK市内の「S」病院へ電話をして、過去の2度の施術歴と現在の症状とをお話しした上で本日CTを撮ってもらえないかと聞いたら「諾」の返事。

 再び母君の職場の方(S氏)にお電話を差し上げてその旨お伝えしたら、何とも図々しい話ですがS氏が直接小倉からK市(「S」病院)まで母君を運んで下さるとの話。母君の様子も眼前ではないので詳しくは分からず(だから悪い方にばかり想像が及び)、かつ車の運転も出来ないので直接役に立つスキルを持たない私は、一も二も無くその提案にお縋りしました。

 という訳で、14時までかけて職員室の引っ越し、15時までデスクワークをした後、16時前「S」病院合流の目途でタクシー移動。母君を送って下さったS氏・T氏にご挨拶と御礼をしてから母君を引き取る。真っ直ぐ歩くどころか立っているのもお辛いというご様子の母君は車椅子に乗せられており、流石にそこは介護のプロ、S氏・T氏の誘導と声かけとは巧み。
 母君はと言えば、そもS氏が気働きで私の職場に電話をして下さったという成り行きをご存じなかった(恐らく説明は受けたのでしょうがご自分の身体の苦しみでそれどころではなかった)ご様子で、頻りに私に迷惑をかけたと謝ってお出でで。ただ、数日前よりも更に酷い症状(立てないのと空嘔吐きの多発と)なのは瞭然で、私も狼狽を隠してお話しをするだけで精一杯です。

 で、こういう時に勉強をしていない(緊急事態に関する心構えや知識やを備えていない)人間の弱さが出る。「S」病院の窓口でCTをお願いしたい旨(電話応対では出来ると仰って頂いた旨)をお伝えしたら、窓口の方が「そんなはずはない」という反応だったのに対して、クレーマーレベルで文句を云えなかったのは今でも後悔。
 先ずはと看護師の方による聞き取りのテーブルに連れられて、味覚障害(に伴う絶食状態)・脳のしびれ・高血圧、等々の症状を1からお話しした結果、ここでもやはり12日のMRIまで待った方が良いという結論が導かれてしまい。「それでは、具体的には食べずに嘔吐いて歩けない状態で、我慢しろということでしょうか?」と聞いたら「はい」とまでは言わないけれども否定されないのだからこれは仕方ない。母君の希望で点滴だけは受けさせてもらえることになったので、処置室で点滴を打ってもらっている間に、私は「S」病院にほぼ隣接しているホテル「T」にツインの部屋を急遽予約しました(二人で一緒に泊まります)。S氏・T氏が小倉にお戻りになった今、母君は小倉に帰る体力を持っておらず、歩けない車椅子の状態ならタクシー15分の私の家よりも隣接ホテルに泊まらせるべきだという判断です(嗚呼、我が家にはまだ冷蔵庫もない!)。
 要は、これならわざわざ小倉からK市に移動させる意味は無かったんじゃないか、という話。痛恨です。帰る手段も(現状では)無いし。母君の職場の方が方々手を尽くして下さって、月曜日からなら入院措置がとれるかもしれない病院を折尾で見つけて下さったそうですが、それでも最低K市で4泊はしなければならない。

 ホテルの予約とは別に、職場の仲良し事務嬢さんに電話をして、急遽買い物につきあって頂くようお願い。ポカリスエットや野菜ジュース等、固形物が取れない母君の栄養物を買うのとは別に、数日以上こちらに滞在することになった場合のことを考えて下着類を購入しておこうと思ったからです。これは、私には買えない。私「パンツ買ってくれたらビール奢るから!」 嬢「言い方!
 19時過ぎまで点滴がかかり、お迎えに上がった母君をホテルまでお連れする。私の足で歩けば1分ですが、手を繋ぐというよりもはや肩を貸す状態でやっと歩ける母君とですのでこれはもう千里。

 母君をホテルのベッドに寝かせ、枕元にポカリスエットやミネラルウォーターを配置。直ぐにお休みになるよう促して、私はタクシーで「もりき」へ。カウンターの椅子にへたり込んで湯豆腐を注文したら、漸くビールで一息です。1時間ほどマスターと話していたら携帯が震え、ホテルの母君から「あまり遅くまで出歩かないように」との言。私が帰るのを待つ必要はないと言っていたんですけれども、はいはいとお答えして(「はい」は一回)、ホテルまでタクシーへ。

 不健康睡眠。
 当面の問題は、明日は自由出勤だから母君におつきあい出来るけれども、明後日の始業式以降はそうは行かないということです。さぁ、どうしよう。

それなりに 経験値も 集めたのに 無効化 されちゃうの

 通常出勤で午前中から15時までデスクワーク。
 お昼の構内、中学等の裏、陶芸小屋の下、と言えば最近のF校生には解るでしょうか、その桜並木の下にビニールシートを広げて、男女・学年入り交じった高校生たちが花見を楽しんでいます。ロートルには信じがたい光景ですが、仲良きことは美しき哉ですし、こういった形で自然に(内発的に)育まれる「愛校心」なら大ありだと思います。桜は満開ではないですし天気も薄曇りですがそれでも彼らにとっては十分。8日の入学式は満開・快晴となればいいですが。

 仕事の途中、昼休みを使って1時間ほど学校を抜け出し、徒歩往復30分の「ヤマダ電機」にて冷蔵庫を購入。三菱製の黒い2ドア(1人用の2ドアはメーカーも種類も極々限られているそうで)、上が冷蔵庫で下が冷凍室。146リットルですから独居には十分なサイズです。学生新生活の時期なので土日配送は4月中は厳しいと言われたので、始業式前日の職員休日(とは言いつつ、担任は新クラス経営準備で出勤日)である明後日(7日)の配送を依頼しました。お値段はだいたい4万円。

 今年度の時間割作成は同窓同僚数学。私は既に4年間時間割を担当した「先輩」としてちょいちょいお話をしてるのですが、本日。完成させた時間割に一箇所不備が見つかったという話。
 数「金曜の2限、高2Eの地理と高3理系地理が教室バッティングしててNGなんよね。で、非常勤の先生の都合で高3を動かせんのよ」
 私「で、高2Eの地理を2限以外に動かすわけね」
 数「連鎖的に金曜の高2全体が動くことになるんやけど、これ、不可能パズルやない?」
 高2の方にも、会議・非常勤・体育施設等々の都合で絶対に動かせない部分が多い故に「不可能パズル」……じゃないな、これ、動かせるじゃん。
 私「唯一解だと思うけど、①高2ABC組の2限と5限を総入れ替えする、②高2E組の2限と4限とを入れ替える、でOK」
 数「あ、ほんとやん。出来た。サンキュー……って、何でこれに気づかんかったっちゃろ」
 私「不自然だからでしょ。変更したら、ほら、高2文系の数甲・数乙が2・3限で連続になった。変える前は3限・5限と離れるようにしてたのに」
 数「確かに。2限連続の数学は文系が可哀想だし不自然だから避けたい」
 私「きみはそれを初期設定段階で『絶対NG』にしてたから始めからその可能性を見なかった。流石、パソコン並の頭だわ」
 数「嫌味か」
 私「誉めてんの。前に言ったじゃん、僕は確率の問題なら絶対全部数えるって」
 こういうパズルは基本的に頭の良い人がやって、たまにどんくさい人の意見を聞いたら良いという話。私(どんくさい人)が時間割をやった時は、最初の叩き台の時点で何度かの徹夜は覚悟でしたもんね。

 夜は近所の肉料理「I」にて独酌読書。
 昼と夜とに電話で話した母君はやはり調子がお悪い様子。12日(MRI)までは頑張る、職場(介護職)の人達のサポートもある、とのお話でしたが……。

愚教師日記

 早朝に学校に出て軽いめのデスクワークは、例えば、新担任の高2B組の学級通信(試作第0号)を作るなど。41人の名簿、班構成、座席表、文理混合クラスなので文理別2種類の時間割(第1号からは一週間分の時間割変更予告)、担任挨拶。
 63回生の高2A担任の時から毎年(週刊で)作成して今年度が4年目。最初は「高校生に時間割変更まで配布するなんて甘やかし過ぎ」と言われたこともありますが、今は真似をなさる先生もおられます。

 11時に診察していただけることになったF校親玉大学病院にて、その少し前に母君と待ち合わせ。新幹線とタクシーとで小倉からK市までお出でになるその移動が既にして辛いと仰有る母君は顔色も足取りも悪く、殆どへたり込むように待合の椅子に着かれる。あぁ、これはただ事ではないんだなぁ、と一刻も早くの診断を待つこと……3時間半! 直前ねじ込み予約とは言えこれはなかなかなことではないかと、文句の一つも言う気力も無さそうな母君の代わりに息子が仇をと思ってしかし文句を言う相手が居ない、それも道理で患者が3時間半待ったということは主治医のY先生は3時間半の超過労働をなさっているということなのでしょうから。
 3月からの味覚障害で何を食べても苦く口に入らず現在では液体のみの(食事とも言えない)食生活であること、空嘔吐きが止まらないこと、頭頂部が痺れて気になること、高血圧が続いたこと、等々をお話しして、結論としては「何とか助けて欲しい」というお願いになるしかない訳ですが。この全てが肺癌由来なのかは解りませんが、自覚症状があるのは無治療経過観察を始めて2年半で初めてのことなのですね(過去2回のガンマナイフの時も自覚症状はありませんでした)。
 結局、5月のMRIを4月12日に前倒しして頂けること、血圧に関するお薬を処方して頂けることになりました。経過観察以来、お薬を処方されるのは初めてのことです。一週間後のMRIというのは正直もっと早くても良いと思ったのですが、大きな病院というのはそういうものなのでしょうと納得。

 歩くスピードだけで考えるならば10~20歳くらいは年を取られたと考えてもいい程度にお悪いようですし、移動がお辛いならば今日はK市に泊まって行かれてもと思ったのですが、診察後に院内のドトールでお話をした(というか、喋り倒した)ので少し気分がすっきりされたのか、母君は小倉に帰るし私の介添え(一緒に小倉に帰って宿泊する)も要らないと仰有る。色々逆らうのも何なので、言われた通りにJRの駅までタクシーでお送りして、私はそのまま学校に戻って仕事を再開しました。
 ドトールのアイスココアが苦くて飲めない、卵サンドも塩の味しかしなくて一口でギブアップ、という事態を目の前にしながら、なおお一人で実家にお帰ししたんですから、今(4/22記)から考えたら親不孝の極みですけれども、こんなのものの数に入らないくらいの不孝がこれから暫く続くことになります。「愚教師日記」(by中村浩)とはこのことと言わんばかりの。

史上稀に見るワンルームなんだぜ 冷蔵庫の中が

 さて、朝から心配な電話。母君はどうにも身体の不調が続いて我慢できないご様子。職場の産業医には相談したということですが、主治医判断が一番ということで、明日10時の診察を電話でねじ込んでもらいました。場合によっては、5月に予定されているMRIの検査も前倒ししてもらう必要がありそうですね。
 先日は職場で脱水症状を訴えられた母君は、周囲(プロの介護職)に促されて生まれて初めてポカリスエットを飲まれたそう。暫く冷蔵庫に常備を、という話の流れの果てに、私も自宅に冷蔵庫を買うこと、ついに決まって(決められて)しまいました。30歳の時に廃棄して以降7年、無きゃ無いで全く構わないのですが。
 母君は、続いて電動自転車の購入も強く勧められる。
 母「池ノ都くん(←二人称)はよく外でお酒を飲むのでしょう? 電気自動車があれば往復が楽でしょうに」
 私「Y子さん(←二人称)、それは飲酒運転です」
 母「じゃあ、宿酔いで歩くのも嫌な朝の出勤が楽になると思えば」
 私「Y子さん、それも多分飲酒運転です」
 酒量抑制命令が雅に遠回しです。

 本日も通常出勤。午前中はデスクワーク、午後は肉体労働……って程でもないですが、新学期から我らが高2B組が使う新しい教室の清掃。机を全部運んで床を掃き、黒板を磨いてお仕舞い。生徒が入って汚さないように、新学期まで出入り口を施錠してもらいました。

 さて、同時刻に地学準備室には元高1Aの有志による「男く祭」食品バザー軍団、今日は試作・試食会だそうです。作るメニューは鶏飯とリンゴ飴とのこと。おうおう廊下にまで良い匂いが……と思って教室に入ったら参加者が元クラス51人中の25人て。
 私「多すぎるやろっ!」
 生「人材過多ですっ!」
 私「4月3日やぞ勉強しろやっ!」
 因みに、春休み課題のプリント(英漢化物日)を全部残らず丸っと失くしたという阿呆生徒の為に「未だ手をつけてないからプリントが白紙状態の課題」を持ち寄る(コピーの為)ように頼んだら、たった2人で5科目コンプリートという頼もしすぎる結果に。
 私「だから勉強しろやっ!」
 生「僕が勉強していないという理由で救われる人が居るんですよ」
 私「だぁほ救われるのはお前の代わりに大学に通る奴だっ!」
 相変わらずの(元)A組クオリティですわ。

うれしそうでした ただいまのあとは

 本日2日は日曜日、3~5(月~水)日が所謂「自研」扱いの連休。この4日間は基本的に自由出勤の仕事、もし余裕があれば日帰りなり一泊なりで小倉の実家帰省を考えていたのですが、母君が体調不良だそうで考え中。居ると何かと気を遣わせてしまうんですね。母君、3月あたりから味覚障害の症状を訴えておられ食欲不振・脱水が心配。加えて目眩・高血圧なども近頃。3月末まで休み無しで続いた資格研修のストレス等もあるのでしょうが、もしも酷いようならK市での病院検査の予定を早めてもらいましょう、とお伝え。母君は本日は仕事がお休みで、明日は半ドンの出勤だそうです。我が親ながら「日常性の維持」……なんて悠長なことを言って良いのかどうか。

 ただ、私は「日常性の維持」で学校にて仕事。元高1Aの生徒から頼まれたプリントの手配をしたり、4月以降の授業準備をしたり、旅行中に読んだ随想集から校内模試の問題を作成したり。旅行にて楽しく完全燃焼出来た分、切り替えはスムーズで今日の仕事は我ながら順調なペース。夜の「もりき」独酌も気分爽快(ってこれはいつものことか)。
 とまぁ、黄金週間に上京するなら次の命の洗濯じゃぶじゃぶまで既に1ヶ月しかないというね。ただ、F高生の4月は「男く祭」に向けて疾風怒濤、教員も(高3の入試直前を除けば)最も忙しく立ち働かないといけないので体調管理が大切なんです。アラフォーもやしっ子教員も倒れないようにしないとね。

吹けば飛ぶよな男だが

 深夜から明け方にかけての徹マンは、私の帰福の都合で先に一人抜けさせてもらったんですけれども、最初の1着が唯一の栄光で後は転がり落ちるだけの負けっぷりでホテル帰着まで這う這うの体。結局借金はしたんだっけしなかったんだっけ、5月黄金週間の飲み会(既定路線)の時にOくんに聞こう。
 という訳で、本日、旅行最終日(池袋→K市への鉄道移動日)。5泊6日で飲み会8回(12軒)という記録更新の激太りツアー、〆の徹マンはズタボロでしたしホテルでの仮眠も2時間程度で、チェックアウト時の眠たさはMAX。ですが総じてとても楽しい旅行でした(いつものことですが)。お世話になった全ての方々に感謝を。
 山手線で池袋→品川、新幹線は品川→博多→K駅、タクシーで自宅へ。品川駅では、「もりき」マスターのお子様方へのお土産、Hさんへの「品川珈琲」。朝食と昼食とを兼ねて新幹線内で駅弁。

 新幹線内は最後のツイ廃モード、140字×2。
 【本日から29年度新学期(生徒は7日まで春休み)。今年度、私は引き続き高校67回生(新高2)の担任団の一員として、高2B組(文系19人・理系22人の混合クラス)の担任を務めることが決定しました。文系はともかく、理系の医学部志望なんてどのように相手をするべきか見当もつきませんが……。】
 【色々な企業の「嘘ネタ」がRTされますが、自前なのか外注なのか、予想通り悉く面白くない。遊び心にクスッとなる・手間に感心する、には最早空間全体がネタ化され過ぎたかなぁ、と今日の為に買った『虚報タイムス 縮刷版』を開いたら面白さの次元が違う。やっぱりあれだ、「日常性の維持」の問題だ。】

 旅行中の読了本14冊、今回は読み終わった順です。
 江口夏実鬼灯の冷徹(24)』読了、★★★★。本作への水木翁の降臨をずっと期待していたら、本編では無く作者へのQ&Aというオマケコーナーに登場。
 内田樹鈴木邦男『慨世の遠吠え2』読了、★★★★★。内田氏も鈴木氏も、しなやかな知性の持ち主(他者がもたらす未知との出会いを創発にして己の知のフレームを組み換え得る人物)であるものの、信じる倫理は人生を通じて一貫しておられる様子。なのに四半世紀前は「右」と分類されたであろう内田氏は今や「左翼」扱いで、正に「最右翼」であった鈴木氏すら今や右翼業界を追放の身。本人が変わらなくても時代が変わるとそうなるのは歴史の滑稽、大衆は常に「言葉のお守り的用法」(鶴見俊輔)を欲するということなんでしょうね。あ~あ。
 森繁拓真となりの関くん(10)』読了、★★★。一ネタで引っ張ってきたのは見事、ネタ枯れも宜なり。今後の休み休みスケジュールの選択は正解でしょうね、次巻は気長に待つことに。
 とある作家のエッセイ本(★★★★★)は、校内模試で出題するまで情報を秘すことに。
 田中眞紀子『父と私』読了、★★★★。著者披露宴に新婦父である角榮氏がスピーチ乱入したというエピソードが良かった。異例の演台占拠からの爆笑スピーチの果て涙で絶句の新婦父に客席から「ようし、よくわかった! もういい! 角さん、もういいよ!」 この合いの手の政治家なら信用もします。さて、40年も前から「自民党には人がいない」と嘆いていた角榮氏、草葉の陰で今の表情は如何。
 瀧波ユカリ『あさはかな夢みし(3)』読了、★★★★。丁度良い引き際。きちんと各登場人物への配慮(愛情)があるまとめ方でした。
 スージー鈴木『1984年の歌謡曲』読了、★★★★。前作『1979年の~』の末尾では潜伏期と呼ばれていたユーミンがこれ以降神憑り状態に入っていくのが1984年で、ベストソングは薬師丸ひろ子「Woman」。この年に突然現れた玉置浩二藤井フミヤという事件。井上陽水によって楽曲・売上的ピークを迎えた中森明菜。「ミス・ブランニューデイ」の革命で印象づけられたサザンオールスターズの完成。以上、登場の固有名詞全てが34年を経てなお現役一線級だということの奇蹟は凄まじいですね。
 安田弘之『ちひろさん(1~6)』読了、★★★★★。空っぽの心と果てしない孤独と、無欠の(自己への)正直、これを表裏一体として今を生きるちひろさん。その姿は、時に人々の「疚しさ」を写し出す鏡であり、時に人々の内なる「優しさ」を顕在化させる現像液であり。傑作です。
 香山リカ永井均中島義道入不二基義香山リカと哲学者たち 明るい哲学の練習 最後に支えてくれるものへ』読了、★★★。永井均が饒舌に形而下の現象について語っていたのが意外。というか、永井均ってTwitterをやってたのね。

 自宅で入浴後、Hさんち経由で「もりき」独酌。ここまでが旅行なのも「日常性の維持」。さて、命の洗濯じゃぶじゃぶ、明日からはお仕事三昧です。

さあ、あなたも奇人変人になりなさい。

 健康起床、入浴、ネカフェのコース。
 の後、九段下に出てまっぴぃに教えて頂いた企画展を観るために「しょうけい館 戦傷病者資料館」へ。企画展「戦傷をのり越えて描いた日々~水木しげる・上田毅八郎の軌跡~」が目当てで確かにそれも充実していたのですが、常設展が先ず凄い。恥ずかしながら「戦傷病者資料館」という存在自体をこれまで知らなかったのですが、初入館にして偶然にも元軍人の体験談聞き取りにも立ち会うことが出来て勉強になりました。パンフレットも充実しており、その中の水木しげるの年表に年号の間違いがあることをお伝えしたら館員の女性に大感謝されて逆に恐縮してしまいました。

 さて、お昼ご飯からはオツカル様とデート。わざわざお仕事を半ドンで切り上げて付き合って下さるとのことで感謝。先ずは、九段下から神谷町に移動、オツカル様お薦めのカレー「ニルヴァナム」にてバイキングを堪能。オツカル様はラッシー、私は勿論ビール。
 その後の周辺散策を前に私が午前中に「しょうけい館」を訪問したことを告げたら、オツカル様が「じゃあ『播磨屋』に行こう! おかきも思想も香ばしい!」と提案。日本一の「おかき処」を謳うこのお店のパンフレットには「スメラギ特別広報隊」「焦眉の急です天皇陛下」「お起ち下さい天皇陛下」と確かに「香ばしい」文字列が。試食のおかきは確かに美味しくてこのあたりの会社(オツカル様の勤務先も含む)の「お持たせ」の定番なんですって。様曰く「『しょうけい館』とここ、教員なら左右のバランスを取らないとね」だって。

 その後は銀座パセラで恒例のカラオケ3時間。今日は曲目が地味なんですけれども、いつものように全曲公開。今回は私が1988年平均、オツカル様が2002年平均、かなり差が出ました。
 オ①BiSH「オーケストラ」(2016年)
 池①フジファブリック「パションフルーツ」(2007年)
 オ②清竜人「バカ バカ バカ」(2012年)
 池②中森明菜セカンド・ラブ」(1982年)
 オ③モーモールルギャバン「POP! 烏龍ハイ」(2009年)
 池③YAPOOS「12階の一番奥」(1992年)
 オ④ぱいぱいでか美「私の名前を呼んでください!」(2015年)
 池④YOSHII LOVINSON「CALL ME」(2005年)
 オ⑤たま「丘の上」(1991年)
 池⑤吉永小百合withトニーズ「勇気あるもの」(1966年)
 池⑥チェリッシュ「夢のおかず」(1992年)
 オ⑥平井堅哀歌(エレジー)」(2007年)
 池⑦サザンオールスターズ「Bye Bye My Love(U are the one)」(1985年)
 オ⑦ぢ・大黒堂「友達じゃないか」(1999年)
 池⑧松任谷由実「破れた恋の繕し方教えます」(1984年)
 オ⑧チャゲ&飛鳥「21世紀」(1983年)
 池⑨チェッカーズ「ジュリアに傷心」(1984年)
 オ⑨高野寛「虹の都へ」(1990年)
 池⑩中島みゆき蕎麦屋」(1980年)
 オ⑩ORANGE RANGE「お願い! セニョリータ」(2005年)
 池⑪スターダストレビュー「クレイジー・ラブ」(1994年)
 オ⑪ORIGINAL LOVE「STARS」(1999年)
 池⑫井上陽水「ロンドン急行」(1974年)
 オ⑫GRAPEVINEアダバナ」(2005年)
 池⑬かまやつひろし「どうにかなるさ」(1970年)
 オ⑬スキマスイッチ「奏」(2004年)
 池⑭UA「水色」(1996年)
 オ⑭バカ殿様とミニモニ姫。「アイーン! ダンスの唄」(2002年)
 池⑮ANATAKIKOU「シンデレラ」(2006年)
 オ⑮石崎ひゅーい「ピーナッツバター」(2014年)
 池⑯MONOBRIGHT孤独の太陽」(2009年)
 オ⑯関ジャニ∞「罪と夏」(2016年)
 池⑰北島三郎「与作」(1978年)
 オ⑰石川さゆり飢餓海峡」(1994年)
 池⑱ハルメンズ「フリートーキング」(1980年)
 オ⑱稲垣潤一「日暮山」(1982年)
 池⑲研ナオコ「あばよ」(1976年)
 オ⑲うしろゆびさされ組「かしこ」(1987年)
 池⑳くるり「青い空」(1999年)
 オ⑳ASIAN KUNG-FU GENERATION「リライト」(2004年)
 オツカル様とのカラオケでは、中森明菜吉永小百合・チェリッシュ・チェッカーズくるり、を歌ったのは初めてかな。過去に歌った歌は不可という縛り、今回はお互いにゆる~く破ってます(私の①④⑪⑮⑯⑱、オツカル様の②③⑥⑮⑯⑱⑳)。次回はちょっと準備して行こう。

 さて、今日の夜は戸川純ちゃんのバースデーライブの後、56回生「いつメン」と飲み会→麻雀、の流れ。なんですが56回生の殆どはオツカル様と飲んだことがあり、且つオツカル様はこの春に推しの地下アイドルであるところの絵恋さんと戸川純ちゃんの対バンイベントに出かける予定とのこと。なら、戸川純ライブを当日券で観て予習して、56回生飲み会にも合流しちゃえ、と。

 戸川純バースデーライブ@新宿ロフト
 ①バーバラ・セクサロイド ②ヴィールス ③肉屋のように ④ロリータ108号 ⑤lilac ⑥赤い戦車 ⑦ギルガメッシュ ⑧NOT DEAD LUNA ⑨フリートーキング ⑩ヒステリヤ ⑪さよならをおしえて ⑫オーロラB ⑬ラジオのように ⑭吹けば飛ぶよな男だが
 56回生諸氏が予約してくれた店の時間があるので、15曲目以下は聴かずにロフトを出ました。冒頭で純ちゃんが観客に謝っておられましたが、風邪で全く声が出ない状態です。今日の半券を持っていればいずれ何らかの特典が得られるようにしたいとのこと。確かにファルセットが全然ダメで随分悔しかったのではないかなぁ、って(それでも、第2部あたりからは声の調子が徐々に上がって来ていました)。オツカル様の対バンイベントの時には全快していることを祈りましょう。それにしても、オツカル様とライブに行ったらアーティストが風邪を引いているというジンクスが生まれそう(前回の矢野アッコちゃんがそうでした)。
 後、昼のカラオケでハルメンズ「フリートーキング」を絶叫どパンク歌唱したんですけれども、これは夜の戸川純がこういう風に歌うよということをオツカル様にお教えするため。オツカル様には後で「完コピだった」と誉めて頂きましたし、歌詞の内容が「森友学園」の事件を連想させるというMCをするよという予言もドンズバで的中させました。

 さて、56回生の「いつメン」+オツカル様飲み会は新宿「十徳」にて。渋谷店には何度も何度も足を運んだことがあります(今回の上京でもです)が、新宿は初めて。ただ、料理は安い旨い・日本酒のそろいは良い、というのは入る前から約束されているわけでビール乾杯の時点でもう満足。
 56回生の参加者は、ライターで幹事のOくん、エンジニアのNくん、金融工学証券会社のSくん、某塾校舎長のYくん、警察庁官僚のMくん。これに我々2人で7人(官僚Mくんはお子様の保育園の入園式を明日に控えてほんの顔見せ程度)。あれこれと益体のない話をしながらヘダラヘダラと過ごして3時間弱。
 Sくんの金融工学の話は何度聞いても意味が分からなくて、とりあえず大学院で共著論文が『NEWTON』に載るような研究をしてたのに金の魅力に負けて就職に走ったという一点だけは深く心に刻まれました(学問重視の立場からの軽蔑ではなくて、魅力に負ける程の金を稼げる人間にだったら元恩師の立場からどんだけでもたかっていいのではないかという貧乏人根性からです。軽蔑するなら私を軽蔑して)。

 Mくんは先に帰宅。飲み会の後はオツカル様、Sくんと別れて、私・Oくん・Nくん・Yくんで徹マン徹マンからは住商Kくんが合流で、ここからは明日の日記になりますね。4月1日、晴れがましい新年度は、徹マンでギッタギタに負けるという幸先の悪いスタートと相成ります。