思惟の指

 6時半の徒歩出勤の後、1限の授業の板書計画。授業は東大文系コースで、本日は07年の清岡卓行『手の変幻』、2~4限の時間で添削をして帰りのSHRで返却。一旦自宅に戻って入浴と夕食の下拵えと。学校に戻って16時から東大理系特講、09年の原研哉『白』を。

 理系東大組は例年並み、と昨日の日記に書いたのですが、中にはとてもよく出来るお生徒さんたちも少なからず居ます。その中には理三志望の生徒が3人居て、その3人の答案を添削するのが(失礼ながら)ちょっと面白い半年間でした。何が面白かったのかというと。
 半年間で3人の答案のクオリティ(←あくまで私の採点で何点が取れるのかというレベルに過ぎません)は横並びになりましたが、最初はうち1人がちょっと遅れていたんですね。本人も、多分、現代文には(あくまで相対的に他の教科科目と比べたら)苦手意識があったんじゃないかと思います。最初の頃、彼もしくは彼女は他の2人と何が違ったのか。
 読解力は、多分3人とも同じ程度だった(勿論、高かった)んじゃないかと思います。流石のお力で、3人とも本文の微細な情報まで全て「視える」。ところが、2人は解答における情報の要不要を瞬時に弁別して、残る1人は「無用之用」で全てを活かそうとする。彼もしくは彼女の答案には長い推敲の痕がくっきり残る、慣れるまでは得点が他2人より低かった所以です。大変だったんじゃないでしょうか……と、横並びになった今なら書いても大丈夫ですよね(自己認識としては、若しかしたらまだ慣れているとは思っておられないかも知れませんが)。

 「視える」人って、情報の「瞬」別をやらないとノイズが五月蠅くて仕方ないんじゃないかなぁ、と想像します。塾もF校も大学もサークルも一緒だった同級生(私の認識では友達)のでっくん(理三から海外研究生活から現在は在東京のお医者さん)は紛れもなく滅茶滅茶「視える」人なんですけれども、大学時代の或る日彼に「何でも視える聞こえるくんが僕みたいなノイズまみれを横に置いてたら疲れて仕方ないんじゃない?」と訊ねたら、「きみ用のフィルターがある(大意)」と言われたことがあります。

 11/13の自粛御膳。
 あて盛り・鰯刺し~キャベツホイル焼き~一汁一菜。
 472蔵目・岡山「さつき心」(地酒CUP)。
 不良なので、家飲みの後、独りカラオケなどしてきました(行きはバス、帰りは徒歩40分)。