過ぎてく時間は 怖くない 輝きを失う事が嫌なのです

 5時入りの学校で昨日の漢文特講の答案を添削。授業は現代文が2コマ(これは、110分の授業が2つということなので、事実上4限分です)。センターが終わり、全ての授業が二次対策になっているので、2コマの授業が終わったらそこで出された添削答案に対峙する必要。もうガッシガシです。

 職員室の入口に、生徒が自学で解いた大学過去問(現代文・漢文)を提出するボックスを置きました(提出ボックスと返却ボックスとの2種類)。センター明けから、そこに続々とプリントが提出されます。17時までに提出ボックス出された答案については、翌(営業)日の8時までに添削を施してその横の返却ボックスに入れる、というシステム。こっちもガッシガシです。

 過去問添削のメリットは何か、週24時間の作業が徒労ではない根拠を示せと聞かれると困ります。自己満足というのは間違いなくありますが(そしてそれで十分な気がしますが)、生徒が得をすることがあるという意味で徒労でないことを証明せよ、と言われた場合。

 過去問を解くメリット自体は、これはもう確実にあります。大抵の大学の二次試験は長い間出題の形式を変えていませんから、演習(実際に自分の頭を使って考えて、自分の手を使って書くという作業)を続ければその大学が求める「型」が自然に身に付きます(私がよく使う言葉で言うならば「身分け」が成されます)。そして、入試解答を含めてあらゆる書き言葉はそれを読む他者に対して開かれていますので(読者不在の呟きなどはそうではない場合もあるかも知れません)、添削という形で応答をすれば、自分の言葉が他者とのコミュニケーションを果たしているという実感のもと、次なる言葉(演習)への意欲が駆動されることがあるかも知れません。
 添削には、その意欲への呼び水としての力はあるかも、と思うのですね。私は個人的に、たとえ0点の評価であっても添削というのは祝福の要素を含んでいると考えています。

 以前、どこかで、答案の解答は相手の能力を低く見積もって書け、という文言を見たことがあります。自分より知的に劣る相手に諄々と説くように書く、ということが委曲を尽くす方向に働く、そして臆することなく解答できる、というアドバイスだったのかも知れません(多分ツイッターだったと思うので、文意を外した解釈の可能性もあります。その場合は申し訳ない)。
 しかし、私はその文言には賛成しません。見くびる故ではなく、尊敬すべき相手に対峙しているという自覚の元でしか、人は委曲を尽くして自分の考えていることを表白しようとはしないものだと思っています。敬すべき相手に向かって、何某かのことについてどれだけ誠実に伝えようとしてもまだ足りないという経験は大抵の人が持つはずで、その呵責故の向上心が解答には定置されるのです。
 背の低い人間が上から目線になっても地面しか見えない、と言われて分からないなら仕方がありません。

 添削をする高校教員が偉いのでは(勿論)ありません。実際、生徒の方が頭いいし。でも、それを大学入試という「春から切実に会いたい尊敬すべき相手(教授)とのコミュニケーション」へ向けてのシミュレーションに使う、程度の想像力が持てない人は、結局「何で勉強してんの?」という問に答えることは出来ません。上から目線の割には自律的に行動している節が全く見えない、みたいな自己矛盾をドヤ顔で晒してる受験生、居ません?

 あ、因みに、入試の過去問を解くもう一つのメリットには、初日1限の国語の試験を気持ちよく終えることができる、ということがあります。なぜそれが可能かというと、過去問を20~30年分でもやっときゃ、本番で解く文章に既視感を覚えることが出来るから。大学って、手を変え品を変え、様々な文章で同じ事を聞く、という端的な事実があるんですね。国語(現代文)は他の科目と違って、解いた手応えと点数(開示)とに碌な相関関係がありません。だから、手応えが自信になることが少ない(空欄を残したことが不安に繋がることはあります)。あり得るのは、「今回の問題は前に読んだことがある文章・設問と同じだったから多分大丈夫じゃないか。自分はこれで大学の求める概念の一端に繋がれたのではないか」という安堵感だけです。初日1限を終えた後の精神状態は、それ以降の受験に直結しますよ、多分。
 例えば東大なら、11年の桑子敏雄を見て「あぁ、これは08年の宇野邦一と同じじゃないか」とか、08年の宇野邦一を見て「あぁ、これは06年の宇都宮輝夫と同じじゃないか」とか、06年宇都宮輝夫の問三を見て「あぁ、これは去年の三木清の問三と同じじゃないか」とか、この「同じ」を感じたときの安心とか分かった感というのが「入試非常時ど緊張」の心身に与える効果は結構大きいんじゃないでしょうか。京大だって、長田弘の本文から清水哲郎鈴木忠志の過去問を想起したら、そりゃあ心強く問題が解けますよ。

 そんな奴おんのかい、って聞かれたら「いないことはないです」としか答えられませんが(だって、上記に挙げた東大・京大の例って、4つの内3つは実際に受験したF高生から聞いた話ですし)。
 国語科恩師先生は、多網的に繋がり響き合う過去問の概念を指して「過去問の小宇宙」とお呼びでした。私も、それを感じられるようになるまで勉強をしなければいけません。