形勢は逆転 気づいたっておせーよ

 ①校内模試、私は出題していないのですが、国語は平均が90/200でした。かつて、恩師先生とは常に「校内模試は常に范文雀(45%)でサインはV(成功)」と駄洒落ていましたがそれで言えば今回は完璧でしたね。
 一方、近年どS教員が荒ぶりまくって難化著しい数学が遂に文理とも50点前後で高3担当若手先生が蒼白。数「ヤバイ、ヤバイ、どうしよ~」 私「だから言ったじゃんか、バランス考えずにたぁだ自分が出したい『ドヤ問』ばっかり並べても試験の意味がないって~」 数「う~っ!(悔)」 私「だ~れも解けないみたいな問題出して難易度『難』、出来『悪い』ってそら当たり前だっつ~の~」

 本日は3時起床、自宅書斎で昨日の東大理系漢文特講の添削。は、我ながら何故こんな古い問題を扱うんでしょうか、80年理系『南史』。
 「清整有風操、自遇甚高」(風操には「世俗に染まらぬ高い節操」の語注あり)の政治家が周囲に呟いた「飲むと狂うという狂泉の水を試しに飲んでみたいものだ」の言は、世俗に迎合しようとする決意か、生涯高潔を貫いた人物による皮肉か。を、遂に特講受講者全員が誤読。高3漢文担当6回目にして初です。これ、初担当だった59回生高3の出来は10%ちょっとで、以来60回生・61回生・63回生・65回生、と徐々に正解率を下げてきておりまして、それでも数人以上は正解があったのですが、ここへ来てとうとう。さて、次に高3漢文を担当する時に、これを「天才判定問題」として使うか、それとももう扱わないか。迷うところです。
 とまぁ、この問題はK学社『xヵ年』の模範解答が誤読するレベルの難問らしいので仕方ないのかな。しかし何故、大学が「これから」の受験生に「世俗に迎合して堕落しよう」なんて書かせようとしている、という結論に対して違和を覚えないんでしょうか。

 1限は数学テストの監督。合間に、いつか校内模試に出そうかと思っている本文と睨めっこ。文系専用の随想で、設問・傍線は4つ。こういう場合、①は本文のテーマの定義、④は最終一文(の一部)、で確定なのですが、それに挟まれた②・③傍線部暫定案の座りが悪い。特に③は傑作の「ドヤ線」なんですが……って時はしかし大抵③が悪いんですね。諦めた途端にスッと新しい②・③が引き直され、①~④で自然な全文要約に。
 入りたての頃とかは意気込んでますからね、生徒に解いてもらうというよりも俺の作問能力を見せるという意味での「ドヤ問」に走ってましたよ。でも、4~5年でそれに疲れたというか飽きたというかがあって、そしてある程度以上無茶したり調子乗ったりしても庇護下に置いて下さった恩師先生がお辞めになったことも重なって、すっかり「ドヤ問」欲求がなりを潜めてしまいました。
 とはいえ「押しつけがましさ」というベースはそんなには急に改まる訳でもなく、今の作問スタンスは「この文章、面白くない? 一緒に読んでみません?」という「シェアへの欲求」に集約されてますね。

 試験監督以外に高2現代文の授業が4コマ。夜、久しぶりに街中で飲もうという気になって(明日の午前中が授業・会議なしなので)ちょっと遠出したのですが、ここでTシャツ1枚で夜の街を歩いたこと、数日後に後悔することになりました。