まさに「タブラ・ラサ」、白く澄みわたった紙である。

 英語の民間試験導入の延期を受けて、他教科の先生方から「次は国語の記述式(が責められる・攻められる番)だね」と声をかけられます。まぁ延期は間違いないでしょうからそれは脇に措いて、試しに先生方に「あの記述式、何が問題だと思います?」と訊き返してみたら、採点の制度的欠陥(不透明・不公正、というか無理だろ)とだけ帰ってきますが(実際それが理由となって中止か延期かになるのでしょうが)、私は正直それは二の次だと思っておりまして。深刻さの一の次は、「書く」という行為の意味が受験生の中で(それこそまさに等しく全員の中で)毀損されることだと思っているのです。
 18歳(くらい)の子どもたちにとってそれまでの人生で最もインパクトを持つ場で(或いは場に向けて)の「書く」という行為があの程度のもので、全受験者にこれこそが「書く」ということだと刷り込まれるなどしたらこれはもう挙国の虐待です。「書く」というのは思索吟味・表現推敲を経た恐る(畏る)べき自己発現のはず、あれしき(思考テストの問題を念頭に置いてます)で「記述」というのは僭称なのでは? と。仮に(本当に仮に)導入されたとして、私の姿勢は「無視」です。実際、少なくとも、現段階で高1の生徒・保護者に国語の記述式について授業や集会等で何かを話したことは一度もありません。

 例えば、共通一次試験は構想から実現までに実に10年以上かけました。受験勉強は「虎視淡々、日常性のEasy!」「焦ったら負け」、なのに制度を司る側が「待ったなし」とかほざく。批判がましいことを言ってる大学も大学で、例えば秋入学だキャップ制だと拙速迷走も甚だしいあそこの大学なんか、行政を嗤えない貉状態なんじゃないの? 子ども、見限るんじゃないの? とちょっと心配になります。

 本日は授業無しでデスクワーク。夜は、何度目だろう教育実習生のKくんと、英語科タメ年先生と3人で焼鳥。今日の店は英語先生の予約で、私は初入店の焼鳥「T」。飲み放題込み3500円とかいう破格のコースで、店内も料理もざっかけない庶民派な感じ。K市の焼鳥が(創作野菜巻き系やブランド鶏系の進出拡大で)全体的に高級化している中、昔ながらで好感度大でした。Kくんは明日が最終日、3週間で雰囲気にも慣れきったのか、段々毒が過激になってきましたねぇ。