言語の権化 書き取る時か

 本日、中3国語Ⅱ(古文)初授業。1・2限で板書計画を立て、3~6限で4クラスを走りました。今日は、自己紹介10分の後、「古典(古文・漢文)を学習する意味」について30分喋って、最後の10分間でリスニング小テスト(唱歌「夏は来ぬ」1番・2番の歌詞聞きとり)を行うという3部構成。
 普段は「古典学習の意味」などという生意気なことを話すのは恥ずかしい、入試のため単位のためっつっといたら勉強する生徒なんだから手間をかけたくない、というような理由で説明を怠るんですが、今回は敢えて喋りました。試験にはな~んにも関係ない話を、それでも(初回だから「お付き合い」もあるのでしょうが)きちんとした態度で聞いてくれた中3諸氏に感謝です。
 ちょっと前に「どうせやるなら中国語、漢文不要」というSNSでの発言が炎上したミュージシャンは、漢文が「不出来な中国語」なのだと思っていたのかも知れませんが、それは違う。もしも彼が、漢文は「見事な完成度の日本語(古文)」なのだということを知らなかったのだとしたら、才ある方なのだろうだけに勿体ないこと。怠りを反省し、「古典学習の意味」を喋ろうと思った契機の一つ。

 石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』読了、★★★★。前述、「古典学習の意味」を喋ろうと思った契機のもう一つ。『ケーキの切れない~』を積ん読状態にしているのですが、何だか読むのが怖くなりました。一昔前には「文化資本」なんて言葉が流行りましたが、今やそんなこと言ってる段ではないということですね。

 夜は向田邦子常夜鍋。向田さんはつけダレを「レモン汁:醤油=1:1」で作ったそうですが、私はポン酢の奴隷なので(但し、故あって「ミツカン」は使いません。美味しいポン酢を作ってる会社、いっぱいありますよぅ)。