夜に生きるもの

 昨夜、「U」でご一緒したKさんからお土産に頂いた炊き込みご飯を、早速朝食に。付け合わせの漬物(自家製)の美味しさに思わず目を開く。お茶はティーバッグ。母君とご一緒の時は、ご病気の影響でティーバッグがお使いになれなかった(小分け袋を切って開ける指先の力が失われていた)ので、母君お気に入りの鉄瓶急須に茶葉を入れていた(ティファールでお湯を沸かして、それを持ち上げるだけの握力はおありでした)のですが、独りになったら楽な方に流れます。

 本日、高校卒業式。朝、真っ先に高3全クラスを回り、前日に教室掃除に入る下級生が残していく黒板アート(メッセージ)の写真を撮りました。今年も力作。絵については、今年と同等・それ以上のものが過去にもありましたが、フォントについては今年が過去のどのメッセージよりも美しいものでした。と、すっかり恒例行事のような書き方をしていますが、この文化がF校に根づいたのって、いつからなんでしょう。この「いつの間にか」はそんなに古い時代じゃない(少なくとも私が就職して随分たってからだ)という気がするんですが。
 卒業式については、校歌を歌う声がとても大きかったのが最も印象に残りました。72回生(とにかく明るい)の特長なのかも知れませんが、それだけではなく、最近の生徒は、男女ともクラス内で歌ったりハモったりすることに(声を出している生徒たちもその周囲に居る無関係の生徒たちも)違和感が無いみたいですもんね。これも、そんなに古い時代じゃない「いつの間にか」です。
 卒業式では、体育館の後ろの壁に貼られた祝電も必ず全部読みます。注視するのは、学校関係者からのものではなく、政治家。これは政治信条とは別の次元の話ですが、卒業式祝電に自分の顔写真を入れてくる政治家(とその周囲)には投票しません。
 因みに、6年前の卒業式・合格発表の時に(も)高3担任だった後輩数学先生は、小火なら消せるスプリンクラーという勢いで泣き散らかし、両頬辺りに虹がかかりそうなくらいだったんですけれども、流石に2度目の今年は大丈夫みたいでした。

 卒業式の後は、体育館で学年行事があり、各クラスでSHRがあり、という流れ。私は担任団ではなく授業を担当しただけの教員(通りすがり)なので、卒業式の日に挨拶に来る生徒は居ません。その手の教員に高3生が挨拶に来るのは、合格発表の後です。
 という訳で、定時を1時間強過ぎた14時に学校を出て徒歩帰宅、入浴。着替えてタクシーを呼びます。本日、4年ぶりに復活をした卒業式後の保護者謝恩会。教員20名(管理職・高3担任団・高3授業担当者)、保護者120名ほどがホテル大宴会場に集まって、飲み食い語らいます。

 ホテルのフルコースで夕方(16時)からお酒を飲む、最高。メニュー、以下。
 ・オードブル盛り合わせ
 ・ミネストローネスープ
 ・クロワッサン/ロールパン
 ・真鯛ポワレエゾアワビときのこのボルドレーズ
 ・国産牛サーロインのグリエ
 ・カフェティラミス/プチシュー
 ・コーヒー
 自分のお金では出来ない贅沢、甘味ですらビールが飲める舌で良かった。教員テーブルでさしつさされつ一頻り飲んだ後は、食後の歓談タイムにやって来られる大勢のお父様お母様と(ビールを注がれながら)お話をする。と言っても、保護者ずらり行列というのは担任団8人の前だけで、私のところには「あいつだけぼっちは哀れだろう」というお心遣いのお母様がぽつぽつとお出でになるくらいで。添削のお礼を言われたり、進学後に住む場所の話を伺ったり、面白い小説のお話をしたり、色々。

 東大合格発表の3月10日程ではないにせよ、卒業式の夜も長い。16~19時の謝恩会が終わった後は、高3英語先生が幹事になって有志2次会へ。野菜料理で知られる「N」という居酒屋の個室12~13人が押さえられていたのですが、良い飲み会(謝恩会)は2次会に人を呼ぶようでどうも入りきらない。
 そこで、私・中1主任体育先生・寮監長体育先生、という比較的高3から「遠い」3人は1.5次会を近くの店でやることにして、「N」から何人かが帰られたら合流するという流れに。向かいの鉄板焼き「M」のテーブルがあいていたのはラッキー、目の前で焼き上がる肉・茸・芋・牡蠣、等々を肴にして、ビールサワーハイボールが進む進む。謝恩会であんなにビール漬けになっといて更にこの勢いで飲めたのは、偏にここで出た初耳の話のインパクトがあり過ぎたため(リアルに「おわあっ!」と声が出ました)。後日、国語科・体育科・体育科の3人は口をそろえて「あの日は1.5次会がいちばんスパークした」と。「M」で1時間半飲んだあたりで連絡があったので「N」に合流。後は野となれ、帰りの記憶は霧の中です。