それでも外見平常に、ふるまうだけのOh No

 加藤元浩Q.E.D.(46)』、『C.M.B.(24)』読了、★★★。

 最小限の努力で最大限の利益をというのは、ビジネスの世界では当たり前のことなのかも知れませんが(ビジネスの世界に身を投じたことがないので分かりませんが)、こと入試勉強においては考えない方が良いと思いますよ、という立場。心身が壊れないなら、「そこまで?」っていうくらいガシガシに勉強して良いんじゃないかと思ってます。だから「効率よい学習」って言葉も口にしません。
 理由は、その方が合格可能性が高いからっていう即物的な理由もありますが、大学入試なんて別に1浪2浪さえ覚悟すりゃ大抵のところには行けるわけだから(F校の生徒、その位の才能はあります)「合格できるか否か」は第一の理由ではありません。第一の理由は、「俺はこんなに勉強しないでここに入れた」という刷り込みを自分に施した上で大学の門を潜った人は、多分入学してから卒業するまでずっとその大学を馬鹿にし続けるからです。本心から自分の実力に自信があるわけでもなく、大した努力の経験も伴っている訳ではないことを知っている故に、「なぜか自分がここに入れた」という不思議な事実を説明する答えを、観念的な上から目線に逃避した上でその大学が「自分が大した努力もしなかったのにのにすんなり入れる程度」の場所に過ぎないからだと思い込む。今自分がいるこの場所は大した空間ではなく、その程度の空間において自分が不必要な努力をする必要はない。2秒程度考えたら何の論理的整合性も伴わなっていないと即座に分かるこの一連の流れを、しかし上から目線の気持ちよさと努力不要の安楽という2大特典を手に入れるためにす~っと受け容れる。
 上から目線は観念の妄想、現実にその身が行っているのは低い位置から俯いて地面を見ているだけです。な~んにも得られずにその場所(大学)を通り過ぎるだけです。ちょっと周りを見れば、空を仰げば、そこには自分が及びもしないような、自分を心から感動させ知的に高めてくれるきっかけになるような、素晴らしい人や物が溢れているのにねぇ。

 ってまぁ、じゃあガシガシ勉強させることを私が自分が担当する学年の生徒にさせ(ることができ)ているかというと、然に非ず。だって、する人は勝手にするし、しない人は手を上げるか手を出すかしないとしませんもん。メッセージ一つでいきなり生まれ変われるほど生徒は従順でも自分の人生に覚悟を持っているわけでもない。
 手を上げるってのは文字通り体罰と恫喝です。そして、手を出すってのは、呼び出して隣に座らせて一緒に勉強するってことです。前者は問題外、体罰は意味がないし、恫喝は私程度の威厳貫禄では不可能。でも、後者はたまに使うかな。自習会を企画したり、どうしてもって場合は直接呼び出して横に座って勉強してもらう(私は仕事をする)。
 でもまぁ、基本は「勉強しようね」ってず~っと言い続けることですね。後は、自分が仕事すること。通じさせられなかったら御免なさい(って、誰に謝ってるんだろう?)。

 本日は昼から出張があるので、5時入りでバタバタ仕事、授業(原研哉「白」)を2コマ行った後、直ぐさま新幹線を乗り継いで京都へ移動。18時~21時の某会議に参加し、反省会という名前の打ち上げに参加。関西の進学校の先生方のお話を聞かせていただく。羨ましかったのは、某学校では研究の為に全ての教員が週一回完全にフリーになる日が与えられているということ。私は日曜日をこれに充てていますけれども、ウィークデーにそれがあれば確かに最高かも。
 ホテルのベッドで健康的に睡眠。