歌ってちょうだい この私に

 武田一義『さよならタマちゃん』読了、★★★★。静かに感動、希望は悲しみをも含みこんだ共感の中にあるのですね。後遺症に震える手で描いたデビュー作が2013年の漫画界で輝く傑作になってしまった作者氏が、どうかこの続編を描かなくていいような漫画家・健康体になりますよう、切に。

 明日は保護者会、その後夕方から、学年の保護者の方々が(理事を中心に)担任団をホテル宴会場に招いて食事会(ざっくばらんに言えば飲み会)を開くという「保護者懇親会」。最初に言っておきますが、担任団は「招かれる側」ですからね。

 ですのに、数週間前の学年会議にて。
 学年主任(化学)「やっぱり、宴会だったら何かこちらから出し物をするのが礼儀と思うんよ」
 体育「いやいや、それはおかしいやろ。確かに俺らは去年化学先生たちがやってたけど、他にそんな学年あるか?」
 国語「あっても例外的でしょね。ってか化学先生、やりたいんでしょ?」
 数学「去年は無理やり羞恥心をやらされて。英語先生が出張とか言って逃げたから」
 英語「逃げたって何言ってんの、俺は心からやりたかったけれども出張が偶然にも入ってしまったから泣く泣く数学先生に譲ってさぁ」
 化学「じゃあ、英語先生は今年参加ね」
 英語「えっ、マジ?」
 国語「っていうか、だから化学先生がやりたいんでしょ? 目立ちたいんでしょ?」
 化学「何言ってんの、俺だってやりたくないけれども保護者に少しでも喜んでもらえればという一心で泣く泣くやるんやんか」
 体育「やるのが前提なんやんか!」
 社会「ということで化学・数学・英語先生で出し物、と」
 国語「いやいやいいやいや、社会ちゃんあんた去年ノリノリで羞恥心踊ってたし」
 数学「そそそそうですよ、私じゃなくて最後の一人は社会先生で」
 社会「冗談じゃない!」
 化学「いや、数学先生はもう決定よ。社会先生は今回はお休み」
 数学「なななんで私は有無を言わさず決まってるんですか!」
 化学「だって歌が巧いもん」
 国語「歌もやんの? 去年みたいに踊るだけじゃなくて? ……えっと、確認しておきたいんですけど、あんたら40も過ぎて何考えてんの?」

 でもって数日前。歌うはアルフィー、ドンキで衣装にかつら、知り合いを通じてギター一式用意したんですって。滅茶苦茶本格的じゃないですか。しかも、シダックスで練習までやる、と。
 体育「池ノ都、あいつら今日シダックスで本気練習するらしいから、俺らも観に行くぞ!」
 国語「台風が来てる時に波の高さをチェックしに行く阿呆がどこにおりますかっ! そんなん観に行ったら絶対自分もやりたくなるに決まってるでしょう! 巻き込まれるのは真っ平ですからね!」
 体育「いやいやいやいや、俺らはあいつらが本気でやってるのを観ながらただ飲んどきゃいーやんか」
 国語「あのね、そんなら行かずに別のところでさしで飲めばいーじゃないですか」
 体育「あ、そか!」
 と言うわけで、何であの人たちはあんなにお祭り好きなんだろうかね子供とノリが全然変わんないよね、とかダラダラ喋りながら飲み会。数学先生とか、嫌々の風を装ってるけど絶対やる気満々ですよ。

 高2の授業4コマ。今日から5回は内田樹祭り、先ずは私が大学時代に読んで本当に感動した本『ためらいの倫理学』に所収、「越境・他者・言語」の一節。未知の世界(家郷の外)への越境の為にはそこから聞こえる絶対的他者(神)の異語に単独者(アブラハム)として耳を澄まして従う(為の言葉の錬磨)必要があるという本文を、未知の世界としての「大学」、絶対的他者としての「教授(作問者)」、単独者としての「受験生」とを例に語るつもり。入試なんて卑近な例にこの文章を落とし込むのは心苦しいけれども、まぁそれは仕事だからやむなくという。
 この文章は私の座右、過去に教科書に入れたり入試に出したりされた例を知らないんですけれどもそれは「出題」「教授」する側の実力がこの文章の力に追いつかないという端的な事実があるからでしょうね(この文章は、第三者から教わるべき文章ではなく、作者と出会うべき文章でしょう)。しかし教える側の実力不足は承知で敢えてやる、それは私がこの文章が好きだから、そしてこの文章が本当に大切なことを言っているから。

 以前、職員室に遊びに来た東大浪人生が、自分は本文をちゃんと理解しているのに採点者がそれを理解してくれない、とぼやいているのを聞いて驚いたことがあります。あぁ、大学から一度「あなたは要らない」と言われてすら、立ち止まって自己客観をするという気持ちになれなかったのか。
 国語の記述試験というのは、本文即ち【①筆者の言葉】を読み、自分が理解した内容を解答【②受験生の言葉】で書いたらはいおしまい、という一方的「作業」ではありません。そのように考える人は、自分が書いた答案が誰に読まれるかを全く意識していない。誰に向かって書かれている訳ではない言葉というものは死んだ言葉で、そんなものが大学の門を開く力を持っているわけがない。さて、生きた言葉とは何か、それは誰に向かって書くのかを理解した(覚悟した)上で、メッセージとして届けようとする言葉です。誰に書くのかと言って、それは採点者即ち出題者即ち受験生が心から進学したいと願っている(んですよね?)大学の教授、受験生が春になったら是非会いたいと痛切に願っている憧れの人です(違うというならその人は受験生ではない)。国語の記述試験には前述の2つの言葉に加えて、リード文・傍線部・設問・語釈・本文タイトル・解答欄の長さ等の【③出題者の言葉】という3つ目の言葉が関わります。その出題者の言葉とは何か、それは一言で言えば「読書の痕跡」です。自分の読む文章のジャンル・筆者・タイトルに惹かれて文章を手に取り、読みながら面白い・重要だと思ったところに傍線を引き、分からない言葉は辞書を調べ、自分の理解を本の余白の限られたスペースにまとめ、という出題者の読書の痕跡が、上記出題者の言葉として問題用紙の上に示されている。受験生はそれを元に出題者の読書を追体験し、解答には「先生が本文をお読みになって理解したのは、こういう内容ですか?」という問いを載せるのです。その読書の追体験が正しいのかどうかは採点結果が明かされないので分かりません、なぜなら大学に入るというのは越境の体験、その境の向こうにいる出題者の先生は受験生とは完全に断絶された絶対的他者だからです。受験生は、越境前の今の自分には全く分からない言葉即ち異語を使う先生の意思を、活字印刷された無機質な問題用紙をまさに眼光紙背に徹すように熟読することでその向こうから僅かに聴き取るしかない。その為に必要なのは、かつてこの日記でも書いたでしょうか、自分に関係があるのかないのか分からないけれどももしかしたら自分に向けてのメッセージかも知れない異語としての情報を聴き取る感度を高めること、そしてその大学に行きたいという思いを強く持ち続けることです。
 受験生は、【出題者の言葉】を手がかりに【筆者の言葉】を読んだ出題者の理解を追体験してその理解を【受験生の言葉】で出題者に差し出すということを行う。これまた以前書いた「上から目線」の受験生はこんな態度は取れないし馬鹿にするかも知れませんね。でも、どうでしょう、大学に入ってから行う知的営みって、要するにそういう出題者(教授)とのコミュニケーションではないのでしょうか。紙の上でそれをプレ実践するというのが国語だと考えて挑む人は、既に大学生活の助走をしていると言えるかも知れません。そういう人に大学は扉を開いてくれるのかも知れませんね。
 高3になったら、過去問の解答とその添削という果てしない往復運動が続きます。その過程で、今はまだ絶対的他者である大学の先生、春になったら是非会いたい憧れの大人からの「異語」をメッセージとして微かに聴き取れた人から大学生になります。