「誤読」の哲学

 5時入りで仕事。授業準備その他、夕方までかけて行う仕事を全て15時までに終了させて、それ以降は高校3年生の校内模試に出した文系現代文(上田三四二「武器について」)の採点を夜まで。半世紀前の文章は歌人の祈り。「決断の、今は決断の時である」の末文は、戦争に核をもたらした現代の国家悪に、市民の祈りの連帯が下からの抵抗になるよう願う切実。しかしまぁ、半世紀前の随想を出題したその日が、市民の連帯が「例の法律」に抵抗する真っ最中だという偶然が凄い(当たり前ですが、偶然です。問題自体は2年以上前から作ってましたし、提出も半年前だし)。

 鷲田清一『おとなの背中』読了、★★★。かつて大阪大学のホームページに載った鷲田氏の総長告示(入学生へ)は素晴らしい文章で授業で何度か使ったり配ったりしたんですけれども、それ以降、総長のお仕事真っ最中に書かれた文章を集めた今回の評論集には、その文章(というか告示書き起こし)に迫る感動を与えてくれるものはありませんでした。「待つ」を大切になさるはずの鷲田氏が、総長激務の中とは言え書かれる文章が明らかに自転車操業になっているのは、これは東北大震災以降の激動を生きる「生き身」がそのまま反映されているからでしょうか。だとしたら、身体で文章を生み出すという鷲田氏のスタイルに変節はないのでしょうね。今が非常時であることを「忘れてはいけない」というのが本書から伝わってきたいちばんのメッセージです(誤読でしょうが)。