土曜日の嘘を覚えているかい

 東大02年、村上陽一郎の添削。
 とある生徒が、解答欄の欄外に本文中の「生への盲目的な執着がヒトが生物であることの明証」という一節を引き、「ならば自殺って一体なんですか。なぜ生を終える決断を下せるのですか」との質問を。若しかしたら、彼(女)の頭の中には具体的な人物が居るのかも知れませんね。だとしたら、私には答えられません。
 欄外の何気ない記述(twitterのtweetsのようなもの)が、思いの発露や単なる駄洒落やなんだったら丸で囲むなりして読みましたと伝えればいい(お気に入り・いいね!)。しかし、真面目な生徒はそれを読むのが教師であるという想定から、ついつい質問文の形を取りがちです。個人的な体験からですが、教員の仕事で特に難しいことの一つは、質問ではない質問体に、答ではない返答体を返すことです。
 勿論、先の質問(体)に何と返答(体)したかは内緒。

 祭日ですが、早朝に学校入りしてず~っと添削・授業準備。

 授業準備は、水曜日の一橋特講。教材は13年の200字要約、椹木野衣「感性は感動しない」。一橋200字で大昔に出題された柳宗悦、芸術は「知る道」でなく「見る道」で味わうべきというのと全く同じ内容。但し、13年の文章は書き手が途中で「芸術家(作る)」と「鑑賞者(味わう)」という2つの立場をごっちゃにしてしまっていて、論が混乱しています(出題は、そこをクリアしてザックリ論旨を抽出してね、という意図なのでしょうか)。
 問題プリント・解答解説プリントを作成した後、資料(本文に関連する読み物)プリントのネタを考える。上記本文では、「見る道」への「感性」は人生経験の凝縮如何に依り教育不能、と言われている。成る程、ならば資料は即断、堀田善衛『美しきもの見し人は』の序文が完全に同じ内容です。

 資料(本文に関連する読み物)の探し方は2通り。
 ①同内容の別文章を、記憶の中から検索して持ってくる(上記堀田善衛式)。
 ②別のアプローチや文体やで、本文の内容と通底することを書いてそうな本に(当て勘で)手を伸ばす。
 ①に続いて、今度は②に挑戦。感性は人生経験の凝縮的なことを言ってそうな本……佐野洋子はどうだ、と国語科に置いていた『ふつうがえらい』(買ったまま未読)に手を伸ばす。エッセイ集の目次を見たら、「読書の原点」「先入観」と題された2小文が「っぽい」。パラ読みしたら……ほら、正解!
 というわけで、①堀田善衛、②佐野洋子、で資料プリント候補は決定です。この間、約10分。この10分も、私にとっては貴重な読書時間なのです。

 「もりき」店休、の日は街中に出てカウンターのある飲み屋で食事・読書。今日は、職場飲み会の幹事として年に1、2度使う店「U」にて。