生きているということは痛いということです。

 青山ゆみこ『ほんのちょっと当事者』読了、★★★★。メディアで(世界知として)のみ受け止めがちな「大文字の困りごと」を、「自分事」(経験知)として捉え直す試み。例えばローン地獄、例えば児童虐待、例えば看取り……。自分自身が突然そこに立たされた時を想定した構えを作るために、或いは、他者の「当事者」性への想像力(思い遣り)の涵養によって我々の世界を少なからず良いものにしていくために。
 「当事者」性に気づいたのが父親の介護だったという筆者と同じく、私が生きるとは「当事者」になることだと実感したのは、やはり母君との同居(生活のお手伝いと自分の仕事との両立)でした。ただ、気づきが親の介護だというのは、人によってはちょっと遅いかも知れない。私は母君が早くに病んだので、30代の終わりにその「当事者経験」を充てることが出来ました。でも、母君が長く息災でいらして(それは素晴らしいことですが)、私が介護による「当事者」性への気づきを迎えるのが(そして自分の経験として実践を引き受けるのが)もしも50代だったら、60代だったら? 考えると寒くなります。
 要するに、年若い方が読むべき本だということです。

 1・4・7限が高1古文の授業。合間に、高3のセンタープレの監督(問題配布と解答用紙回収と)。
 空いている時間に、「趣味以上業務未満」の作業を延々と。体育科主任のサッカー先生から、来年度の授業に関してのご相談を受けました。毎年恒例なんですが、具体的には、「体育科のメンバー各人の来年度の授業担当学年・内容を仮定した上で、各人の出張外部会議の条件・体育施設の使用条件をクリアするような時間割を組むことは、物理的に可能か否か」を実験する(実際に時間割を作ってみる)という作業です。AIがやってくれないので使い勝手が良さそうな人間にやらせよう、ということでしょうか(パズル大好き)。今日と明日との2日あれば出来るかな。こういうの、或る日突然「時間割係」を命じられて自分が「当事者」になる可能性があることを踏まえて、毎年輪番で全先生にやって戴けばいいんじゃないでしょうか。

 本日、職員室は鏡開き。食道からぜんざいが届きますので、甘い物が嫌いでなければ昼食を準備する必要はありません。嘗ては、職員室内にあったコンロで好き勝手に温めて餅も小豆もお代わり自由だった(餅を焼くオーブンもあった)のですが、年々の予算減で今は一人1杯(白玉3粒)という有様、何だったら味まで薄くなった気がします。でも、こういう年中行事が生き残っているということだけでも有難いと思うべきなんでしょうね。

 夜は「もりき」で軽くお刺身をつまんで、帰りにスナック「S」に年始のご挨拶。早い時間で客が一人なのを良いことに、今度オツカル様とのカラオケで歌おうと思っている河島英五を入れたら、ママさんとチーママさん(56回生Nくんママ)から「先生、そんな男らしい歌、どうしたの?」「いつもの気持ちの悪~い女歌は?」と心配されてしまいました。